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7
「…はあ」
その建物を出たときには、外はすっかり暗くなっていた。
ああ、もうこんな時間だ。
逸巳は鞄を抱え直して歩き出した。昼間とあまり変わらない温度の風が頬を撫でる。真夏の気配は日一日と強くなっている。
まだ、六月だというのに。
空腹を感じたが、何を食べたいかわからない。なにが食べたいのだろう?
家に帰って食べることも考えたが、すぐにそれを却下した。今から帰宅して台所をうろうろとすれば、きっとまた気を遣わせてしまうのだ。出来ればそれは避けたかった。
「うーん…」
仕方がない。今日もどこかで何かを食べて帰るしかない。簡単に連絡を入れて歩き出した。
やがて道の先にコンビニが見えてきたが、逸巳は入る気になれなかった。ここには何度も行ったことがあるが、嫌な思い出が出来て通うのを辞めてしまったのだ。
やっぱり駅の近くがいいかもしれない。
そうだ、と逸巳は思った。
このまえ怜と一緒に行った、あの店。
時間を見ればまだやっている時間だ。
行こう、と歩き出した。教えくれた店は美味しかった。店長の知り合いの店と言うだけあって、雰囲気も店のオーナーも感じがよかった。あの店よりもほんの少し広い店内で、怜と小さなテーブルで食事をした。
怜はあまり喋らなかったけれど、逸巳は楽しかった。
すごく、──
「……」
気付けば、進んでいた足がゆっくりと止まっていた。帰宅を急ぐ駅前の人の流れの中で、逸巳の目の前を昼間のことが過る。
怜は何かを言いかけてやめた。
あれは…、あの続きは何だったのだろう。
掴まれた場所をそっと撫でた。
とん、とすれ違う人の肩がぶつかり、足が動いた。促されたようにその足先が道を逸れ、別の道へと入っていく。
気がつけば逸巳は、通い慣れた店の前に立っていた。
喫茶クー・シー。
Cu Sith、不思議な名前だ。
どんな意味があるのだろう。
通りに面した窓にはまだ明かりが見える。でもそろそろ店が閉まる時間だ。入ることは出来そうにない。
入り口を眺めて、なぜ来てしまったんだろうと逸巳は苦笑した。少しぼんやりしていたのかもしれない。
踵を返し歩き出した背後で、扉の開く音がした。思わず逸巳は振り返った。
(あ…)
怜だ。
閉店時間になったのだろう、制服のエプロンを付けたまま表に出てきて、看板を裏返している。
すらりとした背中から目が離せなくなる。
少し俯く後ろ姿。看板に何かあるのか、怜はそのまま動かなくなってしまった。
どうしたんだろう。
「ご…」
声を掛けようとしたとき、奥の暗がりからふっと人影が現れた。女性だ。ゆっくりと怜に近づいていく。
「ねえ」
体をこわばらせ、怜が振り向いた。
距離があるからか、二人とも逸巳には気づかないようだ。
「今日バイトもう終わりでしょ? 遊ばない?」
「は?」
「私あなたのことすごく気に入っちゃった」
は? と怜の声が一層低くなる。
「…何言ってんの」
ひやりと逸巳の背筋が冷えた。
いつもと違う怜の声。
聞くのは二度目だ。
女性の笑う声がした。軽くあしらうように年下の子が好きだと言っている。
「だったらホストにでも行けよ。あんたみたいなのでも喜んで相手してくれんだろ」
一瞬の間を置いて、女性は何か一言言ったが、逸巳にはよく聞こえなかった。怜が言い返すと、扉が開いた。店長だ。怜の名を呼ぶと、彼は女性に気づいて目を向けた。彼女はかすかな笑い声を上げ、暗がりの中に歩き去った。
ほっと逸巳は息を吐いた。
いつの間にか呼吸をするのを忘れていたようだ。
よかった。
くう、と小さく腹が鳴り、逸巳は苦笑した。いい加減、何か食べないとだめらしい。
そろそろ行こう。
「いいから中入れ」
もと来た道を戻ろうと後退る。
そっと暗がりから出た瞬間、怜と言葉を交わしていた店長がふとこちらを向いた。思わず顔を上げ、正面から目が合った。
あ──
「今帰りかい?」
よく知っている瞳。
「…はい」
優しく微笑まれてそう言われ、逸巳は反射的に頷いていた。
「先輩?」
はっとしたように逸巳が顔を上げた。
「あ、何…、ごめん」
その途端逸巳の指から箸が落ちそうになり、それを慌てて取ろうとする。片方の箸がテーブルに転がって、床に落ちた。
「あ、わ、っ」
「大丈夫、待って」
落ちた箸を取ろうとする逸巳を制して、怜は席を立った。箸ならいくらでもあるのだ。カウンターの中から取った新しい箸を、怜は渡した。
「ありがとう」
「そっち、貰うから」
「あ…、うん」
取りに行っている間に拾ったのだろう、逸巳の手には落ちた箸があった。怜は差し出した手で半ば強引にそれを取り上げる。
ありがとう、ともう一度逸巳は言った。
「でもふたりが同じ学校だったなんてなあ、知らなかったよ」
キッチンのほうから聞こえてきた声に、逸巳が困ったように笑顔を向けた。
「僕も知らなくて。学校の中で偶然」
「じゃあそれまでお互い気付かなかったわけだ」
怜が椅子に座り直すと、逸巳は真ん中に置いていた皿を怜のほうに寄せた。店長が作った今日の夕飯は食材の残りで作ったオムレツと小さなピザだ。逸巳が一切れ取った対角線を怜は手に取った。
「うちの校舎、作りが分かれてて。三年は他の学年とあんまり行き来がないから」
「へーえ」
はい、と店長がそれぞれの前に小さなサラダを置いた。
「昼の残り、トマトは平気だよな逸巳くん」
「はい」
思わず指先が小さく跳ねた。
逸巳くん。
──逸巳くん?
「──」
「ありがとうございます」
目の前の逸巳は嬉しそうに笑っている。
「後藤はトマト食わないからどんどん食って」
「あ、はい」
「後でコーヒー飲むだろ? 用意しとくから」
「いえ、あの大丈夫ですそんな、食事だけで十分…」
「いいから。用意しとく」
「すみません、足立さん」
「──」
足立。
それは店長の名前だ。
楽し気なふたりの会話に、かたん、と怜は箸を置いた。
「なあ、ふたりって知り合い?」
「え?」
驚いた顔をした逸巳と目が合った。テーブルの横に立っていた店長が、あ? と首を傾げる。
「知り合いって、どうした?」
「いや…だって」
逸巳くんって。
確かに逸巳は常連だ。だがいくら常連でも苗字ならまだしも下の名前で呼んだり普通しない。
しかも逸巳まで。
客と店主がお互いの名前を知っているのは、顔見知り以上の関係だろう。
関係って──
自分の考えに怜はひとりで苛立った。
何なんだそれ。
「ああ、名前?」
そうか、と思い至ったように店長が目を丸くした。
「おまえがいないときに逸巳くんが忘れ物したことあって、それでだよ」
「忘れ物?」
そんなこと初耳だ。
「いつ?」
いつ俺はいなかった?
ほとんど毎日バイトに来てるのに。
「学校で会う…、ちょっと前かな」
怜と目が合うと、少し困ったように逸巳は微笑んだ。
ポケットに入れていたと思っていたのに、気がつけば失くしていたのだ。
慌てて昨日の自分の行動を一から思い返してみる。学校にいる間は鞄の財布の中に入れていた。それは確かで、学校が終わり教室を出るときに財布の中を見た覚えがある。ちゃんといつものところにあって、それから…
本屋に入り、時間を潰した。時間になって用を終わらせて、家に帰るまでの間時間をまた潰したくて。
クー・シーに行って…それから。
そのとき逸巳のスマホが鳴った。知らない番号だ。
普段なら無視している。
でも逸巳はなぜか、迷うことなく通話に出ていた。
「会員証?」
「うん」
ほら、と言って逸巳は怜に何かを差し出した。帰り道の暗がり、道沿いに建つ店から漏れる明かりに、怜は受け取ったものをかざした。
どこかの店の会員証だ。
くるりと指先で返すと、店のロゴが見えた。
派手な色使いには見覚えがある。怜は眉をひそめた。
「ネカフェ…」
「うん──、後藤くん知ってるんだ、そこ」
「いや、知ってっけど…」
ここから少し外れたところにあるチェーンのネットカフェ。
知ってはいるが、複雑な気持ちになった。
「先輩、あのさ」
「ん?」
半歩前を歩いていた逸巳が肩越しに振り向いた。街灯の光がその頬の柔らかな輪郭を映し出す。
「なんでここ行くの?」
「なんでって?」
不思議そうに逸巳が目を瞬いた。
「ここ、どういうところか知ってる?」
「? ネカフェだろ?」
「そうだけど」
そうだけど違う。
知らないのか、と怜は内心でため息を吐いた。
「先輩ここで何してるんすか」
「何って…」
一瞬躊躇うようにした後、逸巳は怜に向き直った。
「時間を潰して…」
「潰すって、うちにも来てるでしょ」
「あー…、うん」
視線を落とし、逸巳は頬を指で小さく掻いた。言いかけてやめるように唇がかすかに震える。
「そんなに時間潰す必要ってなに」
思わず前のめりになる。靴底がアスファルトにこすれて嫌な音を立てた。
答えを引き出したくて怜は言った。
「先輩塾にも行ってるだろ」
「ええ、と…」
「うちに来るのはその帰りだって俺は思ってた」
「あー、うん」
そうだよね、と逸巳は微笑んだ。それはさっき店で見せた笑顔と同じだ。どこか困ったような笑い方。
その表情にふと怜は思いついてしまった。
「もしかしてさ…、家に帰れねえの?」
逸巳はまっすぐに怜の目を見返した。時間が止まったかのようにゆっくりと、逸巳の瞼が瞬く。
やがて小さく逸巳が笑った。
「よく分かったね」
「分かるよ」
その言葉に自然と怜の口から零れ出ていた。
「俺もそうだから」
誰にも言ったことなどなかったのに。
「…え?」
逸巳が目を瞠る。
ガードレールの向こう、ふたりの横を大型の車が通り過ぎた。すれ違いざまのヘッドライトが射貫くように、逸巳の顔を照らしていった。
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