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「…ただいま」
玄関を入って小さく言うと、しんとした廊下の奥からおかえり、と小さな声が聞こえてきた。リビングに続くドアが開いて母親が顔を覗かせる。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「夕飯は?」
大丈夫、と逸巳は言った。
「適当に食べたから」
「そうなの?」
ふと、彼女の顔が曇った。そんな顔をさせたいわけではないのに、いつまで経っても上手くいかない。
「うん、友達と」
あら、と母親は少し驚いたように呟いた。
「お友達? 塾の?」
「そう、だから気にしないでください」
逸巳は微笑んで階段に向かう。逸巳の自室は二階だ。
「なにかお夜食は? 飲み物とか…持って行きましょうか?」
「じゃあ、お風呂上がったら、取りに行きます」
遠慮がちに言った母親に逸巳は笑顔を向け階段を上がった。
部屋に入り、ドアを閉める。
自分の匂いのする部屋に、ため息を落とした。
嫌なわけじゃない。
家族が嫌いなのではない。
『帰れねえの?』
怜の言葉に頷いた。
でも本当は少し違う。
家に帰れないというのはいささか大袈裟なのだ。家族とはわだかまりがあってもそれなりに上手く──やれている。多分。帰れないと思っているのは逸巳の気持ちの問題だった。どうしても苦手だと思う気持ちが拭いきれない。
「…だめだな」
家の中は暖かいのに、冷たい。自分だけがまるで水の中で溺れているような、そんな感じ。
怜もまた同じだったなんて。
『俺もそうだから』
そう言ったときの怜の顔が忘れられない。自分と似たような気持ちを持っている人が、こんなに近くにいたなんて。
荷物を置き、制服のネクタイを外した。朝ベッドの上に放り出していた着替えに手を伸ばしたとき、ぶる、とズボンのポケットが震えた。スマホを入れっぱなしにしていたのをすっかり忘れていた。電気もつけていない部屋の中で、画面だけが明るく光っている。
怜からだ。
アプリを開くと、帰れた? とたった一言のメッセージが来ていた。
帰れたよ、と逸巳は返信した。
すぐによかった、と返ってくる。
『気をつけて』
別れ際にかけて貰った言葉は優しかった。
その声に、店の前で女性に話しかけられていた光景がふと重なる。きつい言葉を女性にぶつけていた怜の姿。
見たのは今日で二度目だ。
最初はもっと前、あのカフェに通う以前。当然怜は知らないだろう。
いつから逸巳が怜のことを知っていたのかを。
──先輩?
逸巳を見つけたあの瞬間、怜の顔が泣きそうに見えた。
『なんで…どうしたの?』
なんでいるの?
悪いことをしていたのを見つかったような、そんな子供みたいにあどけない表情で駆け寄ってきた。
逸巳の知る怜はふたりいる。
どちらが本当なのだろう。
そして店の中で女性に笑顔を向ける怜を見るたびに、いつもほんの少し苦しさを感じるのはなぜなのか。
自分でもよく分からない。
今夜見ていたことを言いそびれてしまった。何も見ていないふりをしたが、怜は気づいただろうか。
見下ろしていた画面がふっと暗くなった。
指で軽く操作すると再び明るくなった。怜のメッセージに、おやすみ、と逸巳は返した。
***
あれは去年の春だったか。
二年生になった逸巳たちは完成したばかりの新校舎に教室を移した。
『マジですごいな』
寺山の感嘆した声に逸巳は顔を向けた。真新しい匂いのする校舎の廊下、傷ひとつない真っ白な壁とつるりと光沢のある床。まだ誰も入ったことのない教室。来年卒業する三年生を差し置いて、なんとも気後れしながら荷物を運びこんだ。
『ほんとだ』
『俺たちこんなところで勉強するのか』
なんだか落ち着かない、と寺山は窓を開けた。どこか甘い匂いがする暖かな風が吹きこんできて逸巳の髪を揺らす。一階の教室の窓の外は小さな木立になっていて、その向こうには校庭とは名前ばかりの敷地がある。住宅街にあるため、かなり狭いその校庭は休み時間のたまり場ぐらいにしか使い道がないもので、正式なグラウンドは、ここから少し離れた場所に確保されているのだった。
『……──』
そんないつも誰もいない校庭に珍しく人影があった。
誰だろう。
まだ授業中なのに。
『逸巳、これどこ置いた?』
『え、ああ、そこの…』
教壇の机を指差すと、寺山は持っていたものを置きに傍を離れていった。クラスメイトがざわざわと動き回る教室の中、逸巳は吸い寄せられるように窓辺に向かう。
誰だろう、あれ。
見たことのない男子生徒だ。同級生や上級生であるはずがない。そうならばきっと忘れたりしないだろうからだ。
その生徒は綺麗な顔をしていた。
息を呑むほどに。
『ああ、一年生だろ』
『一年?』
『新入生ってこと』
戻ってきた寺山に言われ、逸巳はそうかと納得した。確かに彼は制服を着ていない。新入生ならそれも納得だった。
こんなところで何をしているんだろう?
木立の向こうにいる彼はこちらには気づかない。その視線はどこか遠くを見ていた。
(なんだか…)
綺麗な顔なのに生気がないと逸巳は思った。まるで空洞のように、その内側は深く──
長い前髪が風で揺れる。
『お待たせ』
窓の死角から声がして、逸巳は顔を向けた。女性がひとり、彼の前に現れる。
逸巳は目を丸くした。
あれは、教師だ。
確か去年の秋に来た新任の教師。産休に入った教師の代わりとして赴任してきたと全校集会で紹介されていた。
今年は、新一年生の担任なのだろうか。
彼は教師とひと言二言言葉を交わした。小さくて聞こえないけれど、それに対して教師は話続けている。
学校の中を案内しているのだろうか。
でも、今?
入学式はもう明後日だ。
『新入生代表じゃないか?』
『代表?』
ほら、と寺山は言った。
『受験で成績上位のやつが入学式で挨拶するだろ?』
『ああ──』
そうか。入学式の打ち合わせなのか。
それで…
『俺ちょっと教員室に行くから』
『あ、うん』
そう言って寺山は教室を出て行った。入れ代わり立ち代わり忙しなくクラスメイトが教室を出入りしている。皆荷物を抱え、動き回っていた。逸巳もそろそろ荷物の整理をしなくてはならない。何となく目が離せずにいたが、いつまでも見ているのはまるで覗き見のようだ。
逸巳は振り切るように背を向けた。
気づかれたら気持ち悪がられるに決まっているのに、何してるんだろう。
『…きゃ、…!』
小さな悲鳴に、はっと逸巳は振り返った。
手のひらを抑えた教師が、目の前に立つ男子生徒を驚いたように見上げている。
『…うるせえって言ってんだろ』
聞こえねえのかよ。
『気持ち悪いんだよ、あんた』
教師を蔑んだ目で見下ろし、彼ははっきりとそう言い放ったのだった。
***
あれを見られたんだろうか。
昨日先輩は何も言わなかった。
店で夕飯を食べているときも、帰り道でも、先輩は──
「おい怜、」
ばん、と背中を叩かれて、怜は顔を上げた。
「何ぼーっとしてんだよ」
「うるせえな…」
振り仰げば案の定中井が立っていて、怜を呆れた顔で見下ろしていた。
「頭抱えちゃって何? また変なことでもされてんの」
「うるさい」
「語彙が貧相だよなおまえ」
やれやれ、といった感じで中井は空いていた前の席に座った。
「つーか自習多くね?」
三時間目の今、本来なら英語の授業なのだが、急遽自習になっていた。
「楽でいいだろ」
「そりゃおまえはそうだろうけどさ…」
教室内をぐるりと見渡し、中井は軽くため息をついた。
「自習ばっかやられてもなんも身につかねえんだよな…塾もだるいし」
派手な髪色で軽そうな外見に反して、中井は真面目だった。
校則こそ周りの学校に比べてかなり緩いが、この高校は進学校で進学率も高いと評価もいい。だからこそ入学した生徒は多く、中井もその一人だった。志望しているのは国公立大、三本の指に入る難関だ。
「塾ね…」
「いいよな頭いい奴は」
怜の成績は常に上位だ。他人が苦労していることを容易くやれるのはある種の才能だと、言われたことがある。
『あなたは選ばれた人間なのよ?』
思い出した声にうるさい、と怜は胸の内で履き捨てた。
そんな才能などなくてよかった。
「なあ」
「あん?」
ぱらぱらと教科書を捲っていた中井が顔を上げた。
「塾って楽しいか?」
「はあ? 楽しいわけねーだろが」
中井は心底嫌そうな顔をした。
「早く家帰って寝てえって毎回思ってんだよ」
「へえ…」
早く帰りたい、か…
昨日聞いた──半ばズルをして聞き出した逸巳の話を思い出す。怜は帰りたくない自分の事情を先に話して、逸巳が話しやすいようにした。
『俺は親と色々合わねえから顔見たくなくてバイトしてるけど』
バイトをして金を貯め、家を出ることが望みだ。
あんな家早く出て行きたい。
早く。
『僕は…、』
怜の話を黙って聞いていた逸巳が深く息を吐き、静かな笑みを浮かべた。
『僕もそう、親と色々あって…、塾の終わる時間誤魔化してるんだ』
だから塾がある日もない日も遅く帰る。
いくつか見つけた居場所のどこかで、毎日時間が来るまで過ごしているのだと逸巳は言った。
『馬鹿だろ? 自分でもどうしようもないって思うんだけど』
『んなことねえよ』
気がつけば怜は強い言葉を使っていた。驚いた顔でこちらを見返す逸巳を見て一瞬しまったと思ったが、もう遅い。深く息を吐き、呼吸を整えた。
『先輩のことそんなふうに思うわけないよ』
『…う──うん…?』
『──あのさ、先輩』
その勢いのまま怜は言った。
『俺に連絡先教えて』
『え?』
『あちこちふらふらするなら俺も付き合うから』
え、と逸巳がさらに目を丸くした。
『…後藤くんが? なんで?』
『……そ、れは』
それは危なっかしいからだ。逸巳が落とした会員証の店はいい評判を聞かない。むしろ悪い噂をよく耳にする場所だった。そんな場所に入り浸っていることが心配だった。
「……」
だが怜はそれを逸巳に言わず、いいからと押し切るように連絡先を手に入れた。昨日別れた後に送ったメッセージには、きちんと返事が来た。机の上に置いていたスマホを取ると、今更ながら怜は恥ずかしさでいっぱいになった。
何してるんだ。
帰れた? とか、まるで子供に言うみたいな──
相手は自分よりも年上の、しかも男だ。
もっと他に何かあっただろうが。
「馬鹿か俺は…」
「はあ?」
「…なんでもねえ」
頭を抱えたい気分で怜は頬杖をつき、窓の外を見た。新校舎の白い壁が初夏の日差しに眩しく反射している。今日も暑くなりそうだ。
「後藤、ちょっといい?」
横から聞こえた声に顔を向ければ、柚木が立っていた。隣のクラスも確か自習中だったと思い出す。
「おーユズ」
「…んだよ、なんでいんだよ」
「うるさいなあ、いいでしょ。あっちゃんに用があって来たんだから。あんたはついでなのよ」
あっちゃん、とはこのクラスの真島あいりのことだ。柚木とは仲が良いらしく、いつも二人でくっついて楽しそうに喋っている。
「で、なに」
「んー」
言いにくそうに少し黙ってから、柚木は言った。
「あんたさあ、最近仲良いんでしょ?」
「…あ?」
「三年のー、三沢先輩。仲良さそうに話してるところ何回か見かけたし」
小首をかしげて言う柚木に、怜は怪訝な目を向けた。
なぜ逸巳のことを知っているのか。同じ学校だから知っていても不思議ではないが、部活をしていない柚木が他学年と交流があるとは到底思えなかった。
「おーそういや最近話してるよな、怜」
仲いいよな、という中井の言葉を怜は無視した。
「だから?」
「んー」
再び柚木は思案するように唇を閉じて返事をした。さっきから一体何だと目を向ければ、怜の目を真正面から見返してくる。
「後藤さあ、お願いがあるんだけど」
「お願い?」
「うん、そう」
その言葉の意味を怜は少し考えた。柚木とはある意味友人ではあるが、親友ではない。お互い相容れない部分が多いし、恋愛感情など微塵も持ち合わせていないことはよく分かっている。柚木には他に思う相手がいて、ある時期にそれを意図せず手伝う羽目になったのだが、その借りはいつか返すと約束されていた。
『後藤が困ったときは絶対に力になるからね』
その柚木からのお願いとは?
それよりも…
「それと先輩となんの関係があるんだよ?」
至極まっとうな疑問を口にすると、柚木は赤いリップを塗った唇をなお一層引き結んだ。息を止めるようにしてそのまま沈黙すると、やがて長い溜息を吐き出した。
「関係ある」
「は?」
「めちゃくちゃ関係ある、三沢先輩と」
「だから何なんだよ」
そもそもどうして柚木が逸巳を知っているのか。
自分と同じで部活動をしていない柚木が、三年と知り合う機会などないと思うのだが。
「私、助けてもらったんだ、三沢先輩に」
「…え?」
助けて?
「先月、マリオンで」
「マリオンって…」
怜はどきりとした。
マリオン?
それは…逸巳が落としたと言っていた会員証の店の名前だ。
「えーそれってあそこじゃん」
中井が興味津々とばかりに言った。
「ネカフェだろー、中央通りから入ったとこの。ユズ行くんだ?」
「まあ行くけど…」
「へえーあそこってさ」
「助けてもらったってなんだよ」
怜は中井の声を遮って柚木を見上げた。視線に戸惑ったように柚木が目を彷徨わせる。
「柚木」
「わかった、言う、言うから…」
低く名前を呼ぶと、柚木は観念したようにため息をついた。ちらりと中井に目をやってから、怜に視線を戻す。
「先月マリオンで絡まれてたのを男の人に助けてもらったんだけど、私逃げちゃって」
「あ?」
「怖くなってさ…、そしたらその人学校の中で見かけてびっくりして」
まさかあのとき助けてくれた男が同じ高校生だったなんて思いもしなかった、と柚木は続けた。
それが。
「…三沢先輩だって?」
柚木は頷いた。
「制服じゃないからわかんなかったし」
確かに逸巳は怜が知る限り、制服で店に来たことは一度もない。時間を潰すためにあちこちに居場所を作っていると言っていたから、きっとどこかで着替えているのかもしれない。
怜だって、あの日校内で会うまでは分からなかったのだ。
「後藤」
柚木は唇を引き、軽く嚙みしめた。それは彼女の癖のようなものだ。
怜は何度か、その仕草を見たことがある。
「三沢先輩にもうあの店に行かないように言ってよ」
「…なんで」
怜は怪訝に眉をひそめた。
「いいから、頼むから行かないでって言って。お願い後藤! この借りも絶対絶対返すから!」
きゅっと唇を結んだまま柚木は怜を拝むように手を合わせた。
ぱちん! と鳴った手のひらに周りの目がこちらを向く。何事かと色めき立った視線に怜は一瞥を返して黙らせると、深い溜息を吐きながら髪を掻き上げた。
「じゃあ理由を言えよ」
まだ肝心なことを柚木は言っていない。
なぜそうしなければいけないのか。
逸巳に話すのはそれからだ。
机の上に放り出していた怜のスマホの通知が小さく鳴った。
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