急いては事を仕損じる

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「……ぅう、痛い」  詩音は体の痛みに呻きながら目を覚ました。ぼんやりしたまま、ここはどこだろうと視線を彷徨わせる。 (あ、ここ。特別室だ……! でも、どうしてこんなところに?)  視線だけを動かして今いる場所を確認すると、水篠会病院で一番グレードが高い病室のベッドに寝かされていることが分かった。大きな窓から見える夜景を眺めながら、詩音の頭の中が疑問符で埋め尽くされていく。 「気がついたか?」 「お父様……」  窓のほうを見ながら顔をしかめていると、この病院の病院長である父が顔を覗き込んでくる。父は眉をひそめて、とても難しい顔で私を見ていた。何があったのかと問いかけようとして体を動かした途端、稀一の手が伸びてきて制止される。 「稀一さん……?」 「詩音、頭を打っているから急に動かないでくれ。起きたいなら起こしてやるから」 「ありがとうございます」  寝転びながら小さく頭を下げる動作をすると、稀一がベッドの背もたれを起こしてくれる。そして彼の顔が近づいてきた。 「良かった。目の動きもおかしくないな。受け答えもちゃんとできているし……。水篠先生、特に問題はなさそうです」 「うむ。詩音、気分はどうだ? 吐き気はないか?」 「吐き気はないけど、全身が痛いわ」 「それは仕方ない。今、痛み止めを点滴しているからそのうち効いてくるだろう」 (痛み止め……?)  父の言葉に自分の腕から伸びているチューブを辿り点滴のパックを見ると、ハッとした。 (私、予想もしていなかったところに稀一さんがいたからびっくりして、階段から落ちちゃったんだわ……) 「詩音、本当にすまなかった。側にいたのに、守れなかった。飛び出して詩音を受け止めようとしたのに大辻(おおつじ)が邪魔をしたんだ」 「守れなかっただなんて大袈裟です。そもそも私がドジなのがいけないんだから謝らないでください」  深々と頭を下げる稀一に首を横に振りながら、彼を止めてくれた整形外科の大辻医師に心底感謝した。 「ねぇ、稀一さん。身を挺して私を守ろうとするのはやめてね? 二人一緒に怪我なんて笑えませんよ」 「まったくだ。今回はおおごとにはならなかったから良かったが不注意すぎるぞ、詩音」 「ごめんなさい」 「母さんから最近働き詰めだと聞いている。どうせ手が使えなければ仕事もままならないだろう。この機会にゆっくり休みなさい」 「はい」 (ん?)  父の言葉に粛々と頭を下げる。だが、聞き逃せない部分があって、慌てて顔を上げた。 「い、今、手が使えないって言った?」 「ああ。手首を骨折している。完治するまでは稀一くんに世話になるといい」 「え? 待って……!」  そう言って病室を出ていった父に手を伸ばす。  すると、ギプスで固定された左手首が目に入ってきた。そのうえ、入院着に着せ替えられている。  稀一を尋ねて病院に来た時とは、かけ離れた自分の姿に動揺を隠せない。 「骨折? 手首を骨折?」 「骨折と言っても、ヒビが入っているだけだから、そこまで心配しなくていい。ただ利き手ではないと言っても生活や仕事はしづらいと思う。できる限りサポートするから」  詩音が茫然と呟いていると、稀一がそう言いながら蛍光灯の光にレントゲン写真をかざす。それを見ると、確かにヒビが入っていた。 「見えるか? ここにヒビが入っているんだ。でも軽症だからギプスで治療することは可能かな。基本の固定範囲は肘の下から手までで、固定期間は四~六週程度。もちろん濡らせないから風呂の時困るだろうし、ギプス外れるまではうちにおいで。俺が風呂に入れてやるよ」 (え? お風呂?)  稀一の言葉に目を見張る。  うちにおいでという言葉以上のパワーワードに詩音は硬直した。  が、すぐにハッとして慌てて首を横に振る。 「き、稀一さんは心臓血管外科が専門でしょう。これは整形外科の……」 「ああ。だから診察は大辻が担当するけど、専門じゃなくても家で詩音の世話くらいできるよ。明日は休みだから、泊まりの準備しような」 「で、でも」 (稀一さんの家に泊まるなんて……! しかも一ヵ月以上も!?)  いずれ一緒に住みたいとは考えていたが、それは結婚後の話だ。まだ心の準備ができていない。  詩音が慌てていると、稀一も詩音の躊躇いを感じ取ったのか、彼が詩音の右手を握った。 「結婚したら一緒に住むんだしシミュレーションだと思えばいいんじゃないのか? 詩音が嫌がることは絶対しないから」 「嫌がることなんて……」  そんなものはない。  数時間前に救急看護師と交わした軽口を思い出して、顔を俯けた。彼女は「久しぶりだから盛り上がるんじゃない?」と言ったが、稀一とはそんな関係じゃないのだ。  キスはしたことあるが、それだって触れる程度だ。本当に自分たちは清い……清すぎるお付き合いなのだ。  稀一は自分を大切にしてくれている。大切にしすぎている。正直なところ、少し物足りない。詩音としてはいつそうなってもいいように最近では大人びたセクシーな下着を身につけたり、肌の手入れを頑張ったりしているのだが、そういう雰囲気にすらならないのだ。 (嫌がることしてくれていいのに……)  本音を飲み込み、ぺこりと頭を下げる。 「はい。父も稀一さんの世話になれと言っていましたし、しばらくよろしくお願いします」 「ああ、よろしくな」  とても満足そうに笑う彼に、頬に熱が集まり鼓動が加速していくのを感じる。 (一緒にいる時間が増えれば、もしかしたら……)  詩音は不埒な期待をいだいて熱くなった顔を布団をずり上げて隠した。
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