急いては事を仕損じる

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「もう本当にこういうことは勘弁してほしい。これからはどれだけ気が急いていてもエレベーターを使うと約束してくれないか? 緒方先生が階段から飛ぼうとした時は、びっくりしすぎて寿命が縮まるかと思ったよ」  翌日、詩音は整形外科医の大辻の診察を受けていた。彼はカルテに視線を落としたまま、深い溜息をつく。  稀一は落ちる詩音を抱き締めて一緒に落ちれば守れると思ったのだろうが、(はた)から見ている者にはたまったものではなかっただろう。もちろん詩音だとて、稀一にそんなことはしてほしくない。  詩音は大辻の心中が慮られて、深々と頭を下げた。 「……ごめんなさい」 「緒方先生は詩音ちゃんが絡むと周りが見えなくなることがある。だから君が気をつけてほしい」 「肝に銘じるわ」  稀一に危険極まりない無謀な行動を取らせた――それが間違いなく自分のせいなのだと思うと申し訳なくて居た堪れない。  詩音が神妙な面持ちで頷くと、大辻が乾いた笑いを浮かべたあと、詩音の額を指で弾いた。 「僕も君の父上の意見には賛成だ。詩音ちゃんは研究にのめり込むところがあるから、この怪我を理由に休んどくといいよ」 「でもリハビリを始めたら仕事に戻りたいわ。今、忙しいのよ」 「……うーん。君の父上と婚約者殿――二人がどう言うかだな。まあ、担当医として言えることは無茶はしないでくれってことかな。万が一、痛み止めを常用したくなるような痛みを感じた場合は無理せずに僕や緒方先生に言ってほしい。決して焦らないようにね」 「はーい」  骨折していない右のほうの手を勢いよくあげて返事をすると、大辻が呆れたように笑う。彼の目に誤魔化すように笑い返すと、看護師の倉崎(くらさき)が「そうよ、無茶はいけないわ」と言いながら、詩音の肩に手を置いて微かに微笑んだ。どこか母性を感じさせる柔和な雰囲気の彼女を、詩音は幼い頃からとても慕っている。 「倉崎さんに言われたら仕方ないですね。仕事は無理のない範囲に留めておきます」 「詩音ちゃん……俺の言うことも聞いてよ」 「そうよ、大辻先生の忠告は聞いておきなさい。貴方、次何かあったら緒方先生が何するか分からないわよ。仕事辞めさせられて家から出してくれなくなるかも」 「やだ、倉崎さんったら」  倉崎の脅しをけらけらと笑い飛ばす。すると、なぜか二人が顔を見合わせながら苦笑いした。その様子に目を瞬かせる。 (まさか本気で言ってるの? 稀一さんは過保護なほうだけど、そんなひどいことをする人じゃないわ)  詩音が不満顔で二人を見つめると、大辻が「んー」と唸った。 「ほら。緒方先生って、元々イタリアの病院で働いていただろ?」 「え? う、うん……」 「日本に帰国したことで、恋人とうまくいかなくなったらしいよ。まあ、あくまで噂だけどね。でもそれがあるから、今詩音ちゃんに過保護なんじゃないの? 次こそは大切な人と別れたくないって想いが強いんだと思うよ」 (恋人……? 稀一さん、恋人いたの!?)  大辻の言葉を聞いた途端、後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が走った。それが本当なら間違いなく、自分のせいだ。だって彼は詩音と婚約して、水篠会病院で働くために日本に帰国したのだから。 (私が稀一さんとその恋人さんを引き裂いたの?)  詩音が唇を噛んで俯いた瞬間、倉崎が大辻の背中をバシンと叩く。 「やぁね、大辻せんせーったら。元カノの話を出すなんて無粋なんだから。詩音ちゃん、気にすることないわよ。二人は元は家の都合かもしれないけど、それでも心を寄り添わせているって、ラブラブだって、側で見ていて伝わってくるもの」  倉崎のフォローに詩音は苦々しく笑って返す。  稀一が詩音に寄り添おうとしてくれているのは分かる。その思いを否定するつもりはない。だが、もしかするとイタリアに――その人のところに戻りたいのかもしれない…… (だから、稀一さんは私に触れなかったのよ)  ならば、詩音ができることは稀一を解放してあげることだ。 (稀一さんと話し合わなきゃ)  詩音はそう心に決めて病室へ戻った。  ***  ――コンコン  虚脱状態で入院着から母が昨夜持ってきてくれた私服に着替えていると、ノックの音が響いた。  詩音は慌てて服を着て、「どうぞ」と声をかける。 「詩音、準備できた?」 「……はい」  どういう顔で稀一に接したらいいか分からず、部屋に入ってきた彼から視線を逸らして頷く。  今日は稀一が車を出してくれる。そしてそのまま彼のマンションに行く予定だ。だが、彼は白衣は着ていないもののまだスクラブのままだ。 (まだ仕事が残っているのかしら?)  スクラブ姿の彼をぼんやり眺めていると、彼が詩音の頭を撫でた。 「OK。じゃあ、俺もすぐに帰る用意してくるから待ってて。退院の手続きとかは水篠先生がしといてくれるらしいから、詩音は何もしなくていい」 「はい、あ、あの……」  詩音はバッグのファスナーを閉めて、意を決して彼に向き直った。 「お忙しいのにありがとうございます。あの、帰る前に話があるんです」 「話? それなら、帰りの車の中で聞くよ」 「で、でも、それじゃ遅くて……。えっと……」  詩音はぎゅっと拳を握り締めて、稀一を見つめた。彼は状況が呑み込めないのか首を傾げている。 「一体どうしたんだ? まさか今日の診察で何か問題でも見つかったのか?」 「ち、違います。えっと……わ、私たち別れませんか!」 「は?」 (あ、違う。失敗しちゃった……!)  自分との婚約のせいで、別れさせてしまった元恋人の話を稀一からちゃんと聞いてから、話し会いたかったのだ。場合によっては別れを切り出そうと思っていたが、今言うつもりではなかった。が、彼が左手首の心配をし出すからつい慌てすぎて結論から話してしまったのだ。  詩音が自分の口を手で覆うと、稀一の目がすっと細まる。その表情はいつもとは違い、とても怖かった。
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