満月を背にする男

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 僕は夜の海岸を散歩していた。風が涼しい。歩くたびに足が沈む。サンダルからはみ出た指先に、砂が昼間に溜め込んだ温もりが伝わる。  満月の強い光が誰もいない海岸を照らしている。昼間は海水浴客が騒々しくていけない。そして何より暑い。海岸を散歩するのは日課だが、夏は夜に歩くことにしていた。  ふと、薄闇の中に佇む一人の人間を見つけた。横を向いており、海を背にしている。  僕は立ち止まった。僕以外の人間がいることはさほど珍しいことではないが、海を眺めていないのはおかしい。わざわざ夜の海岸で立ち止まって何をしているのだろうか。  僕はまた歩を進め、その人が男と分かるほどの距離まで近づいた。男はぱっと見た感じでは六十歳ほどに見えたが、顔に刻まれた皺や白髪の量が暗くてよく分からず、本当はもっと若いのかもしれず、また年寄りかもしれなかった。  男がこちらを見て言った。 「こんばんは」  微笑んでいるように見えた。 「こんばんは。あなたも散歩ですか?」と僕は尋ねた。 「ああ、そうなんだが、妙な物を見つけてね」男はこちらが訊かずとも、僕の疑問に答えてくれるらしかった。「これを見てみなさい」  男は地面を指して言った。  そこにはナイフのようなものが突き刺さっていた。見えるのは柄の部分だけで、刃にあたる部分はほとんど砂に埋もれている。 「ナイフ……ですかね?」 「多分ね」  男は短く答えただけで、黙ってしまった。何を言いたいのか分からない。僕はまた地面を見た。すると、ナイフの周辺に線が引かれていることに気づいた。その線は人の形を描いていて、その人型の、ちょうど心臓に当たる部分に、ナイフは深々と刺さっていた。  僕は男の顔を見た。男はナイフをじっと見続けている。不気味だった。  とりあえず、男に問いかける。 「このナイフを刺したのは、あなたですか?」 「……」男はしばらくしてから反問した。「君はどう思う?」 「どう思うと言われても」 「私が刺したのか、それとも他の誰かが刺したのか」 「……あなた、以外の誰かですかね。昼間に誰かが刺したんでしょう」 「なら、この線は?」 「それも、昼間に誰かが書いたんでしょう」 「では訊くが」男は改まった調子で「このナイフを刺した人物と、線を書いた人物は、同一人物なのかな? それとも最初に誰かがナイフを刺すか、線を書くかして、それから違う人間が、そこにもう一方を加えたのかな? 二人は何の打ち合わせもせずに、偶然の巡り合わせで……」 「……」  意味が分からない。男はなぜこんな質問をするのか。  質問に答えずにいると、男の方から口を開いた。 「君の言うとおり、ナイフを刺したのも線を書いたのも、私じゃないんだ。だから誰が何のためにやったのか気になるんだよ」 「たしかに、こんな悪趣味なことをなぜやったのかは、僕も気になりますが」 「いや、それもそうなんだが、私が気になるのはもっと別のことだ」 「別のこと?」 「君はまだ気づいていないのかい? よく見てごらん」  地面に視線を移す。砂の線と、ナイフ。正確にはナイフの柄。べつに変わったところは見当たらない。  たまりかねたのか、男が先に答えを言った。 「影だよ」 「あっ」  男の一声で何もかも分かった。薄暗くて気づかなかったが、砂の線は男の影の輪郭をきれいに縁取っていたのだ。ナイフは影の心臓に刺さっている。男は海というより、海の上に浮かぶ月を背にしていたのだ。月明かりに浮かぶ影を見るために。 「ようやくあなたが何を気にしているのか分かりましたよ。たしかにこれは気味が悪い」 「そうなんだよ。この線は、私の影をきれいに囲んでいる。そして、胸の部分にナイフが刺さっている。ただの偶然と言ってしまえばそれまでだが、何か不吉な運命を暗示しているように見えてならない。私が今日ここへ来たのもまったくの偶然だしね。久しぶりに海を見たくてここに来たんだ。別にいつでも良かった。もう仕事を辞めているから。で、来たらこれだ。こう偶然が重なると……」  僕の中で、男は不気味な人物から気の毒な人物に変わっていた。 「そんなことを気にしたって仕方がないですよ」  僕はそう言ってナイフの柄を掴んだ。 「何をする」  男はおどおどと言った。 「こいつを引っこ抜いてしまえばいい」 「ああ、それは私も考えたが、それを抜いたところで、私がナイフで刺される運命は変えられないと思うよ」  僕は男の臆病さに少し呆れた。 「そんなに怖いなら、なおさら不安の元凶を取り除きましょう。このままにしておくと危険ですし」 「なら、そうしてくれ。少しは気が楽になるかもしれない」  僕はナイフを引っこ抜いた。ナイフの刃が月明かりに煌めく。その煌めきの先に、黒い何かが刺さっていた。泥の塊かと思ったが、よく見ると、ヤドカリの死骸だった。 「何だい、それは」 「ヤドカリの死骸みたいです」  僕がそう答えると、男は大声でこう言った。 「それは私の心臓だ!」  男は狂ったように笑いだした。
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