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その日の夕食の時間――。
イグナーツは文字通り目を点にしてしまった。
「なんだって?」
「お父さま。エルシーは人参を食べられるようになったのです」
エルシーは色の濃い野菜を苦手とする傾向があった。だから、人参も彼女にとっては苦手な野菜に分類されていたはずだ。
「お母さまが、人参ケーキを作ってくれました。とても、美味しいのです」
それはイグナーツにとっては初耳だった。思わず、眉間に皺を寄せる。
「人参、ケーキ? オネルヴァがか?」
「あ、はい。エルシーは野菜が苦手であると伺いましたので。厨房をお借りして、人参のケーキを作ってみました」
イグナーツは、彼女がそういった料理ができることを知らなかったし、なによりも肝心の人参ケーキを食べていない。それがなんとなく悔しい。
「俺の分は……」
心の中で悔しがっていたはずなのに、思わず声に出ていた。
「エルシーが、全部食べました。お父さまは、甘いものが苦手ですよね?」
にかっとエルシーが笑う。
エルシーの言う通り、イグナーツは甘いお菓子などが苦手である。だが、自分の知らないところで、オネルヴァが菓子を作り振舞っていた事実に、心の奥底でもやっとした感情の炎がくすぶっていた。
「だが……。人参のケーキなのだろう? それでも甘いのか?」
「そうですね。ケーキ自体は人参の甘みくらいです。クリームやジャムをつけて食べたほうが、食べやすいと思います」
オネルヴァの答えを聞いたイグナーツは、じろりとエルシーに視線を向けた。
彼女は「あっ」という表情をして、何事もなかったかのようにナイフを動かしている。
こほん、とイグナーツは咳払いをした。
「そうやって、エルシーが苦手な野菜を食べられるようになるのは、喜ばしいことだ。できれば、これからもそのように野菜を食べられるように指導してもらえないだろうか」
イグナーツ一人では手や考えが回らないところは多々ある。使用人に任せている部分もあるが、やはり母親と使用人では立場も違うのだろう。憎たらしいと思っていた国王の言葉が、今になって身に染みた。
「エルシー」
名を呼ばれたエルシーは、ぴくっと身体を震わせた。
「人参が食べられるようになったのだろう? だが今は、皿の隅のほうに分けているように見えるが?」
「あ、あとで、食べようと思ったのです」
むっと唇を尖らせる様子は可愛いが、イグナーツが指摘しなかったらそのまま皿の脇に残していたにちがいない。
「そうか。だったら、エルシーが食べるところを見てみたいな」
イグナーツが穏やかに笑みを向けると、エルシーは困ったように口をへの字に曲げた。
隣からオネルヴァが幾言か声をかける。するとエルシーは観念したのか、フォークにぷすっと付け合わせの人参をさした。少しの間、フォークに刺さっている人参を見つめていたが、勢いよく口の中に入れた。
イグナーツは、ふっと笑みをこぼす。
「きちんと食べられたな」
口をもごもごと動かしながらエルシーは頷き、そのままごくんと飲み込んだ。顔を大きくしかめた彼女は、小さな手でグラスを握りしめ、一気に水を飲み干した。
「やっぱり、お母さまのケーキのほうが美味しいです」
がんばったわね、と言わんばかりの微笑みを、オネルヴァは浮かべている。
そんな二人の様子を、イグナーツは黙って見つめていた。
エルシーもオネルヴァを受け入れたが、オネルヴァもエルシーを受け入れている。イグナーツにとっては、それが意外でもあった。
敵対させたいわけではないが、どことなくぎこちない二人を見せかけの家族にしていくのが自分の役目であると思っていたからだ。
なんとなく役割がなくなったような、表現しがたい喪失感に襲われていた。
「お父さま。お父さまは、エルシーが人参を食べられるようになったら、エルシーの言うことをきいてくれると、お約束してました」
子どもというのは、自分の都合のよいことはよく覚えているものだ。いや、都合が悪くても、勝手にいい方向に解釈しようとする。
だが、今のエルシーの言葉は、間違いなくイグナーツと約束したものである。彼女はずっとそれを覚えていたのだ。
「そうだな。エルシーが頑張ったなら、なにかご褒美をと思っていたんだ」
ぱぁっと、エルシーの顔が輝いた。オネルヴァは絶えず笑みを浮かべていて、エルシーを優しく見守っている。
「エルシーは、お父さまとお母さまと、一緒に寝たいです」
イグナーツは、動かしていた手をおもわず止めた。だが、すぐに肉を切り、口の中へ放り込む。ナプキンで口元を拭い、エルシーを見る。
「エルシー?」
「エルシーは、いつも一人で寝ています。だけど、寂しいので、お父さまとお母さまが一緒に寝ているのなら、エルシーも混ぜて欲しいです」
イグナーツは困惑した。そもそもオネルヴァとは一緒に寝ていない。夫婦の寝室はあるが、あそこは、イグナーツの部屋からは開かずの間と化している。
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