妻子が可愛い夫と夫がよくわからない妻

8/10
前へ
/75ページ
次へ
 オネルヴァは不安気に彼を見つめていた。  イグナーツは軽く息を吐く。 「君がそんなに不安になるのであれば、こちらも本音を口にしよう」  ぴくっとオネルヴァの身体が震えた。 「君が『無力』でありながら君を迎えたのはエルシーのためだ」 「エルシーのため、ですか?」  ああ、と彼は大きく頷く。 「俺に妻は必要ない。だが、エルシーに母親は必要だ。君に求めるのは、エルシーの母親役。母親としての役割を果たしてくれれば、俺は何も言わない。例え君が『無力』であったとしても」  オネルヴァは、膝の上においていた両手で、思わずドレスをぎゅっと握りしめた。 「それが、わたくしがここに存在する理由ですか?」 「そうだ。幸いなことに、エルシーも君になついている。それに、君がここに来てから、エルシーも明るくなったし、勉強にも前向きに取り組んでいる」  エルシーはオネルヴァのことを「お母さま、お母さま」と慕ってくれている。 「はい」  そうやって理由を与えられたほうが、『無力』であっても、気兼ねなくここにいられる。 「ありがとうございます」  オネルヴァの言葉にイグナーツは何も返さない。ただ、黙々とケーキを食べていた。  オネルヴァも自ら取り分けたケーキを一口食べた。彼女が取り分けたケーキは、イグナーツの半分にも満たない量だった。 「オネルヴァ」 「は、はい」  突然名を呼ばれ、身を強張らせる。 「前にも言ったが。君は食が細すぎる。エルシーよりも食べていないだろう?」 「エルシーは育ち盛りですから」 「それでも、君だって立派な成人した大人の女性だ。俺が知っている女性よりも、明らかに食べる量は少ない。ヘニーからも、君の食事量を心配する声があがってきている」 「申し訳、ありません……」 「いや、謝罪することではない。君が向こうでどのような暮らしをしていたかはわからないが……。ここではきちっと食べて、エルシーの見本になってもらうような女性でいてもらいたい。そのような女性が貧相であっては困るからな」  まるで今のオネルヴァが貧相に見えるかのような発言である。驚いて、目を真ん丸に見開いた。 「いや、そういう意味ではなく……。まあ、例えだ、例え」  イグナーツが慌てているため、オネルヴァはくすりと微笑んだ。 「ありがとうございます」  慌てる彼が、なぜか可愛らしいと思えてしまった。  二人は黙々とケーキを食べた。  オネルヴァが一国の王女であったにもかかわらず、こうやって料理ができるのも、あそこでの幽閉生活が長かったせいだ。勉強する時間だけはたくさんあった。 「旦那様。エルシーが手紙を読んで、すぐにお返事が欲しいと言っておりました」  二人だけの静かなティータイムを終えようとしたときに、オネルヴァはいつまでたっても手紙を読まないイグナーツに向かってそう言った。 「すぐに? 何か、大事なことが書かれているのか?」  あとでこっそりと読もうとしていたにちがいない。エルシーからの手紙を手にしたイグナーツは立ち上がり、執務席の引き出しからペーパーナイフを取り出すと、丁寧に閉じられていた封筒をピリピリと開ける。  中から出てきたのは便箋一枚。それでも幼いエルシーが書いたと考えれば、立派なものだ。  手紙に目を走らせているイグナーツの眉間に、次第に深く皺が刻まれていく。 「どうか、されましたか?」  ドレスを握りしめながら、オネルヴァは尋ねた。 「いや……。エルシーが人参を食べられるようになったら、なんでも言うことをきくと言っていたからな。その件だ」 「夜、一緒に寝たいと、エルシーは言っておりましたね」 「ああ……。それはいつだ、と書かれている」 「まぁ」  エルシーの手紙の愛らしさに、オネルヴァは目尻を下げた。だが、イグナーツは困惑しているようにも見える。 「早いほうがよいかと思います。まして、約束事ですから」  オネルヴァが声をかけると、イグナーツが手紙から顔をあげた。 「そうか。そうだな。今夜……か……」  ぽろっと彼がこぼした言葉を、オネルヴァは拾い取った。 「そのようにエルシーにお伝えしてもよろしいですか?」 「いや、あ。そうだな。だが、どこで寝る? 三人でとなれば、それなりに広い寝台が必要だろう?」  だが一人は子どもだ。大人二人眠れる場所であれば、充分でもある。 「でしたら、あの寝室ですか?」  オネルヴァが小首を傾げて尋ねると、イグナーツは首を横に振る。 「駄目だ。あの部屋は、まだ使っていない。使っていないのをエルシーに知られたら、俺たちが不仲であると不安になるだろう」 「でしたら、エルシーのお部屋がいいですね。エルシーの寝台でも、充分に広いですから」  オネルヴァが言った通り、エルシーが使っている寝台も大人二人が眠れるような広さの寝台である。そこにエルシーが一人で眠っているのだから、寂しくも感じるのだろう。 「そうだな。そうするか……」  渋々と口にしたような彼であるが、その口元は盛大ににやけていた。
/75ページ

最初のコメントを投稿しよう!

534人が本棚に入れています
本棚に追加