夫41歳、妻22歳、娘6歳

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「俺の妻云々はおいておいて。もう一人の娘とはなんなんだ?」 「まあ、キシュアスの前王には娘が二人いたということだ。だが、もう一人のほうは表舞台から消されていた」 「なぜ?」 「『無力』だからだな」  その言葉に、イグナーツは思わずゴクリと喉を鳴らしてしまった。 「あの国では『無力』は疎外の対象となっている。まして王族。存在しない者にしたかったのだろうな」  それができなかったのは『無力』なりに使い道があるとでも思っていたからだろう。  ゼセール王が水面下で手に入れた情報によると、言葉にしたくないような計画が立てられていたとのことだ。 「というわけでだ。結婚してくれ」  イグナーツも今の話で状況を理解した。キシュアス前王の娘でありながらも、処罰の対象とならなかったのは幽閉されていたのが原因だろう。 「彼女の肩書が重要であるなら、安心しなさい。彼女は現王の養女となったから、やはり王女のままだ」  肩書などどうでもいい。とにかくイグナーツは結婚したくないのだ。まして相手がキシュアス前王の娘となれば、なおのこと。 「この年にもなって、今さら結婚したいとは思わない。……断る」 「とは言わせないと言っただろう? これは王命だ。それに相手が『無力』であれば、君にとって都合がいいのではないか?」  だから断りたいのだ。相手が『無力』でなければ受け入れていただろう。相手が『無力』だからこそ駄目なのだ。 「どうせ君のことだから、くだらないことで悩んでいるのはわかっている。世間体やらなんやらか? 言いたい奴には好きに言わせておけ」  そう言いながらも、王はイグナーツが好きに言うのを許していない。 イグナーツが何か言えば「却下」「断る」「不採用」「没」と否定の言葉を口にするのがゼセール王なのだ。 「そうだ。発想の転換をしよう」  王はパチンと指を鳴らしたつもりのようだが、かすった音しか出てこなかった。指もかさつく年代であるのを自覚してもらいたい。目の前の王だって四十も半ばに差し掛かろうとしている。 「先ほども言っただろう? 君の娘、エルシーにも母親は必要なのではないか? 君のような無骨な男が父親であればなおのこと」  イグナーツはひくっとこめかみを動かした。 「だからな。エルシーのために結婚してくれ」 「ぐぬぬっ……」  娘のエルシーには、やはり母親は必要なのだろうと思っていた。だが、それを埋めるかのように侍女たちがなにかと世話をしてくれるし、家庭教師も手配している。  イグナーツは父親として、彼女を立派な淑女(レディ)に育てていると自負している面はあった。  だが、ときどきエルシーから「お母さまってどんな人?」と聞かれると、胸の奥がズキンと痛む。 『優しくて、エルシーのことを心から愛していた。君が大きくなった姿を見せてあげたいよ』  そう答えると、エルシーはイグナーツと同じような澄んだ茶色の瞳を、嬉しそうに綻ばせるのだ。 「いや。エルシーに母親はいる。もうこの世にはいないが、彼女の心の中にはいるんだ」 「もちろん、彼女を産んだ母親を否定する気はないよ。だがね、これから心も身体も成長するにあたり、身近に心許せる存在が必要なのではないかと、私は思っているのだが?」  王の視線はどこか遠くを見つめている。何かの想いに耽っているのだろう。 「男と女は、身体も心も違う。エルシーが身体で悩み始めた時に、君はその助けになれるのか?」 「侍女がいる」 「それは、使用人だろう? もちろん、彼女たちの存在を否定する気はないが、やはり使用人と家族では、エルシーだって心構えが違うだろう?」  王の言葉が正論過ぎて、反論できない。いや、もともと反論など許されぬ話なのだ。  それに、エルシーに母親的存在がいたほうがいいのではないかと思っているのは、イグナーツも同じだった。
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