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カチャカチャとカトラリーの静かな音が響く。必死でナイフを動かしているエルシーの姿は、見ていて飽きない。
広い食堂の翡翠色のテーブルクロスの映えるテーブルに、イグナーツはエルシーと向かい合って座り、食事をとっていた。
「旦那様、こちらは苦手なものでしたか?」
パトリックがそう声をかけてきたのも、イグナーツのフォークがなかなか動かないからだろう。
「お父さま、好ききらいをしてはいけません」
いきなりエルシーからそのように言葉をかけられて、思わずイグナーツは目を細めた。彼女の口元には、ソースがついている。
その様子を見ていたパトリックは、ぷっと噴き出した。
「ああ。そうだな。久しぶりにエルシーと食事をして、嬉しすぎて喉が通らないんだ。食事はどれも美味しいよ」
慌ててイグナーツはフォークを口元にまで運んだ。
あの件をどうやってエルシーに伝えるか、悩んでいたせいもある。
エルシーは、しばらく会わない間にずいぶんと成長したようだ。食事も一人で食べるし、カトラリーの使い方もよく学んでいる。
だが、好き嫌いをしてはいけないと言った彼女自身が、苦手な野菜を皿の隅に避けていた。それには微笑みすら零れる。
食事が終わり、お茶が運ばれてきた。エルシーの前には、彼女の好きなチョコレートのババロアが置かれる。
「エルシー」
名を呼ぶと、ババロアをすくっていた彼女が顔をあげた。
「新しいお母さまがきてもいいか?」
ポロリと彼女のスプーンの上からババロアが落ちた。慌ててエルシーはすくい直すと、パクリと口に入れる。
そんな彼女の様子をイグナーツは黙って見ていた。彼女が嫌がる素振りを見せるなら、結婚を断る絶好の機会である。
ババロアを噛みしめたエルシーは、にかっと顔中を輝かせた。
「はい。うれしいです」
彼女が嫌がるだろうと思っていたイグナーツは面食らった。笑顔のエルシーに対して、イグナーツの顔はひくひくと引き攣り始めている。
「エルシーは、新しいお母さまが嫌ではない?」
「はい!」
元気よく返事されてしまうと、今までイグナーツだけでは不満だったのかと思ってしまうくらいだ。
寂しい思いをさせてしまったのか。
やはり父親だけでは満たされなかったのか。
瞬間的に、さまざまな思いが、イグナーツの頭を支配し始めた。
「エルシーもお母さまと仲良くなれますか?」
まだ居ぬ母親に、彼女は想像を広げている。
イグナーツは失敗したと思っていた。完全に裏目に出た。イグナーツは、彼女が拒むと思っていたのだ。
二人の家族に割り込む他人。それを嫌がるだろうと勝手に思っていた。
「そうだな。お母さまはエルシーと仲良くしたいと思っているよ」
イグナーツですら目にしたことのない彼女を、勝手に美化して口にした。エルシーの期待を裏切りたくない。となれば、彼女の「新しいお母さま」をこの屋敷に連れてこなければならない。
「お父さまは、新しいお母さまと結婚式をするのですか?」
エルシーに聞かれ、はっとする。
幻の王女をエルシーが母親として望むのであれば、この屋敷に受け入れようと思っていたが、結婚式をどうするかまでは考えていなかった。その辺はあの王と相談しなければならないだろう。むしろ、彼のことだから勝手に決めている可能性もある。
エルシーの瞳は期待に満ちて、きらきらと輝いていた。結婚式に憧れる年頃なのだろう。
「それは……。俺も若くないからなぁ。まずは一緒に住んでから、お母さまの意見を聞いてから考えるというのはどうだろう?」
「わかりました。でも、お母さまも結婚式をしたいと思います。エルシーも結婚式をしたいです」
後方から熱い視線を感じた。チラリとそこに目を向けると、パトリックがニヤニヤと口元を歪めながら立っていた。
*~*~花の月五日~*~*
『きょうは おとうさまがかえってきました
あたらしいおかあさまがほしいか きかれました
それは おとうさまにすきなひとができたあいずです
エルシーは おとうさまがすきなひとと しあわせになってもらいたいです
エルシーは おとうさまのこどもになれて しあわせです
あたらしいおかあさまは エルシーのことを すきになってくれるかな』
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