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鍵夢
ガラステーブルが中央に置かれている応接室らしき部屋の中で、鍵を見つけることができたのは床がもう7割ほどなくなったタイミングだった。
狂いそうになるほど焦りながら探していた鍵は、いつの間にか履いている靴の中に入っていたようで、僕は踏んづけた痛みとともにそこに鍵が存在していることに気がつけた。慌てて靴を脱ぎ、銀色のドアノブにある鍵穴に差し込んでみる。するりと入って一瞬安堵したが、今度はどんなに頑張っても回すことができない。
手の平に汗が出てきたのを意識しながら指先に力を集中させて、鍵が壊れるかもしれないと不安になるぐらい力を入れる。でも、びくともしない。すりガラス越しに反対側を見ることのできるドアの前で、何でだ、と地団駄してしまう。その間にも部屋の床はボロボロと端から崩れていく。崩れた先にあるものは、闇。先ほど試しにテーブルの上に置いてあった灰皿を落としてみたら、数メートル先までは視認できたがそこから先はまるで見えなくなり、底にたどり着いた音さえしなかった。
なおも死にものぐるいで鍵を回そうとする。微動だにしない。踵が地面についている感触がなくなった。爪先立ちになる。でもすぐに崩壊は爪先までやってくる。体が宙に浮いた。鍵を差し入れていたドアノブにしがみつく。でも、そのドアも崩壊にまきこまれて、ささやかな抵抗もすぐに無意味になった。落ちていく。落ちていく。加速がついていく。死。そのことを強く意識したのと同時に、体に痛みを感じた。
恐る恐る手を動かして硬い床がそこに確かに存在することを確認する。天井も見える。あれだけ落ちたのに、と不思議になるが悪夢を見ていただけだと気づく。風に煽られる凧のようにふわふわとはっきりしていなかった意識が徐々に明確になってくる。軽い深呼吸をしてから身を起こした。
また、鍵が開かないために死んでいく夢だった。夢の中であっちこっち探しまくったためか、どっぷりとした疲れが体を支配している。これでは何のために眠っているのか分からない、と毒づきながら舌打ちする。いつまでも床の上でちんたらしているわけにもいかず、立ち上がって部屋の照明をつける。はっきりと部屋の中を見まわせるようになると、自室にいるのに、自分以外誰がいるわけでもないのに、何と形容していいか分からない居心地の悪さを覚えた。被害妄想も甚だしいと自分でも呆れる。
セロトニン不足。
最近めっきり外出していない。日光を最後に浴びたのは1週間以上前で、そんなおかしい状態にいるから、色々と神経が参っているのだ。生兵法で診断を下し、今日は外出日とすることに決める。顔を洗い、最低限の寝癖を直し、着替えてから外に出る。10年以上前から着ているコートは少しくたびれて、手首部分が擦り切れ始めている。だが誰に見せるわけでもないから、どうでもいいと判断して、人がほとんどいない最寄り駅までの道をだらだらと歩いていく。途中で橋を渡ったり石階段を下りたりして、15分ぐらいで到着した駅は相変わらず平成初期に建設されたもの特有の趣があり、寂れている。スマホで自動改札を通過して、登りの電車を待つ。何となく息苦しさを覚えるし、口元に熱もこもっているがこれについては我慢するしかない。
登りの電車が到着するまで10分もかからなかった。暖房が効いている車内に入るといよいよ体が熱くなってきて、僕はコートを脱いで膝に置く。車内のいくつかの窓は上部のほうが少しすかされていて、電車が走り始めると外気が音を立てて入ってくる。エネルギーの無駄遣いのような気がしてならないが、これもまた現状仕方がないものだった。電車の揺れを体で感じながらスマホをいじったり、ぼんやり車窓に映る景色を眺めていたりしているうちに数駅通過する。ドアが開くたびに人が入ったり、逆に出て行ったりするが、登り方面の電車なので入ってくる人のほうが当然多い。でも、今日は平日だからまだ少ない方なのだろう。僕以外の大抵の人間はちゃんと目的をもって行動しているはずだ。今の僕がしているように思いついたままに数駅離れた大きな本屋に行くような、時間の無駄遣いはしていない。
誰とも目を合わせたくなかったので、よりスマホに集中しているような風を装っていると、誰かが咳をするのが聞こえた。近くはないけど、完全に無視できるほど遠くもない。そして咳の感じからして軽く呼吸を整えるためのようなものでもない。予想は当たり、咳はその後も間断なく続く。何となく視線を上げ、窓がいまだ開いているかどうかを確認する。真向かいに座っていた男性も僕と同じような気持なのか、立ち上がって、より換気ができるよう窓の開け具合を調節している。半分ほど開かれた窓から侵入してくる冷気によって、車内の温度が若干下がり始める。
咳は続く。何人かが立ち上がるのが気配で分かり、僕の前を通り過ぎてまで離れようとする人もちらほらいた。電車が次の駅にたどり着いた時、降車する人たちの勢いを僕はそっと観察してみる。降車時の人の流れはいつもより微妙に早いように見えた。
咳は続く。僕ももう少し離れようかな、と考えるが、次が降車駅なのでそこまで過敏にならなくてもいいと判断する。電車は順調に走り続けていて、遅延の恐れもなさそうだ。
咳は続く。電車の速度が落ちてきたので、僕はややフライング気味にドアの前まで歩いていく。開くまであと30秒もないはずだ。電車はスーッとホームに滑り込み、停車する。だが、扉は中々開こうとしなかった。
咳は続く。トラブルか、と疑念を抱いている内にこの車両にはもう僕と咳をする男しかいなくなっていることに気付く。焦りが生まれる。早く。早く、開いてくれ。一心に僕は祈るが、ドアはびくとも動かない。何かがあるような気がして、視線を下に向ける。銀色の電車のドアには鍵穴がつけられていた。
男の咳に急かされながら鍵を探し始める。車内の座席の上を軽く見まわしてみるも、ない。今度は荷物棚の上を探す。幸い僕は背が高いのでちょっと背伸びをするだけで、荷物棚の様子を見ることはできた。順々に各座席の上を見ていく。咳の数は増していく。鍵は、全く見つからない。いつの間にか咳をしている男が僕の方に近寄っているように思えた。
もの凄くその男を殴りたくなったが、そんなことをするわけにもいかないので、代わりにホームへつながるドアを思いっきり殴ってみる。何度も意味もなく殴っている時、窓ガラスから見えるホーム上に何人か人が立っているのに初めて気が付く。服装からして、男と女が同数ぐらいいることは分かったが、顔の部分が黒い靄のようなものに覆われていて、表情はまるで読めない。でも、彼ら彼女らは笑っているような気がした。その笑いが僕の口元を見たことに起因するものだと直感するまで、そう時間はかからなかった。
そんなもの意味はない。やるだけ無駄。ダサい。ビビり。非科学。男らしくない。実際にそんな言葉をかけられているわけではないのに、それでも僕は穴があったら入りたい気分になる。もし今扉が開いて車内から出られたとしても、這う這うの体でその場を後にすることしかできないだろう。あるいは帰りの電車がもし向こう側のホームに到着していたら、その電車に駆け込むのだろう。
鍵がコートのポケットにあることを唐突に理解する。とにもかくにも咳をする男からは逃れたいので、右手でそれをポケットから取り出し、ドアの鍵穴に入れようとする。だが入りさえしない。鍵はいつの間にか暗証番号入力のものになっていた。当然番号は分かるはずもない。窓をぶち破って逃げる方がまだ現実的だろう。
電車がいきなり横転する。ホーム上でどうやったら横転できるのだ、と不思議に思ったが、車体は完全に倒れ、僕の体はドアに押し付けられる。気が付いたら僕は車両の中ではなく別の部屋にいた。1人で過ごすための小屋の中といった感じで、小さい机と椅子だけが壁際に置いてあり、壁も床も腐っているかのようにボロボロな木材で出来ている。部屋の片隅からは、何となく嫌なものを感じた。すると急にそこから燃料も火種もなかったはずなのに火の手が上がり始める。
いい加減にしてくれ。
怒りで体が震えた。鍵を探さなければいけないという義務感に近い感情はあったが、今回は怒りのほうがそれを僅差で打ち破る。小屋の唯一の出口に鍵穴があるのが見えて、僕はそこに近寄って、右目をそれに押し当てる。随分と古い鍵だったことが幸いし、鍵穴から向こう側の様子を窺えた。熱が徐々に背中に近づいている感覚はしたが無視する。
向こう側にはもう1つ部屋があって、その部屋の中を、人が考え事でもしている風に歩いていた。顔を見ることは鍵穴からではさすがに出来なかったが、服装からして男であることぐらいは分かった。男はタブレットで何か動画でも見ているのか、スピーカー越しに誰かが喋っている声がする。試しに声をかけてみるも、反応がない。意図的に無視しているのかもしれないが、ただ単に動画に夢中なだけのようにも見えた。いつの間にか着ていた上着についているポケットがズシリと重くなった。鍵だ。鍵が入っていると、見てもいないのに気づくことができた。鍵穴から向こう側の様子を見つつ、僕はポケットの中を探ってその鍵に手を触れる。
その時だった。鍵穴の向こうにいる男は素早く反応した。突風を想起させる速度でドアの前まで来る。怖い。先ほどまでとは違い、明らかに向こうは僕の状態に気づいていた。鍵をポケットから取り出し、鍵穴に差し入れるのとほぼ同時に男の右腕も動いた。鍵は入りこそしたものの、回すことができない。回せないように向こう側から押さえつけているのだ。
もし手元に斧があったら、鍵なんてしゃらくさいものはやめて、ドアをぶち破る方向に動いていたことだろう。先ほどよりも熱が近づいているように感じて、振り返ってみるともう部屋の5割は炎に包まれていた。いつもの通り焦りが生まれる。ドアを拳で叩く。こんなものだ。こんなもので拒絶されているから、弾かれているから、僕は閉じ込められて何度も何度も死ぬような思いをしなければならなくなっているのだ。
「おい、開けろよ! 邪魔すんなよ!」
ドア向こうの男に怒鳴りつけると。クスクスといった感じの笑い声が聞こえたような気がした。人が切羽詰まっている様がそんなに面白いのか、と唾でも吐きたくなったが、どんな綺麗ごとを言ったところで無様な人間を見下す行為は時として娯楽になり得るのだ、と頭の中でまだ冷静さを保っている自分が諭してくる。不意に向こうにいる男が後ろに下がり始めた。ようやく開ける気になったのか、とほっとするが、鍵は相変わらず回らない。どうやらドアから少し離れたかっただけで、鍵から手を離すつもりはないようだ。掌の上で弄ばれている気がした。
男はしゃがみこんだ。こちら側から顔が見えるようになる。会ったこともない男だったが、にやにやと笑っていた。嗜虐心がたっぷり込められたその嘲笑を見て、今の自分が完全に見世物以外の価値を何も持っていないとはっきりと自覚する。
男の顔が変わった。まるで警察で使われているモンタージュのように、あるいはAIが無作為に作成していくかのように次々と変わっていく。その人相には嘲笑、怒り、悲しみと色々な感情が込められていたが、プラスの感情が出てこないことだけは共通していた。見下すしかない、愚かな人間。この百面相が僕をそうとらえているのは明らかでぞっとする。延々続くかと思われたその変化は僕のいる部屋が完全に炎に包まれるのと同時に終わる。自分の体が炎に包まれる間際、鍵穴の向こうに見えた顔は、紛れもなく僕の顔だった。熱さにもだえながら僕は扉の向こうにいる自分の視点も脳内で体験することができた。扉向こうの僕は部屋が完全に炎に包まれたのを正確に感じ取っていて、安堵のため息をつく。上着のポケットから鍵ではなく、マジックペンを取り出して扉に対して何か文字を書き殴り終えたもう1人の僕は、まるで一仕事終えたかのような達成感を抱きながら部屋の中に置いてあった椅子に座る。今まさに燃え尽きようとしている僕の存在を、完全に邪魔者としてしか扱っていない。見捨てられた者と見捨てる者。両方の感情が同時に頭に浮かんできて、混乱のあまり吐きそうな気分だった。
体がびくっと震えて、目を覚ます。カタタン、カタタン、と電車が線路を走る音が鼓膜を叩いた。尻を包む柔らかな座席の感触。若干古さを感じさせ始めた無骨な車両の内装。そしてやや効きすぎている暖房。圧倒的なリアリティを前に脳がこれこそが現実であると瞬時に判断する。次が僕が目的地としていた駅であることを、やや聞きづらい車内アナウンスが伝えてくる。トレーナーの下に着ているTシャツが寝汗で濡れていて気持ち悪い。その感触に辟易しながら、僕はぐるりと車内を見まわす。咳をしている男なんていなかった。夢が勝手に生み出した産物と分かり、ほっとする。電車はゆっくりと減速し、完全に停止した。ドアが開くかな、と少し不安になったが、プシュッという音とともに問題なく開く。当然鍵なんて必要なく、問題なく僕は降りることができた。
ホームに用意されているエスカレーターで上に上がって改札を通ると、平日でもそれなりに人がいてやや歩きづらくなる。駅から遊歩道で繋がっているデパートへと向かう途中、何となくの習慣で人々の顔を観察し、先ほど電車の中で生まれた安心感が少し削がれていく。苛立ちが自分の中でまるで雪のように積もっていくのを感じながら、頑張ってやや歩くスピードを速くする。人の間を縫うように移動していると拡声器越しの声が聞こえた。マイクを持っている初老のお爺さんが行く手にいて、何人か他にビラを配っているご老人達が立っている。会釈をしながらビラを貰ってくれるよう頭を下げ続けている、その愚直と評してもよい姿に自然とほのかな憐れみと、かすかに攻撃的な感情が生まれてくる。通行人の1人がそんな老婆から1枚ビラを受け取ったが、内容を少し読んだ後、くしゃくしゃに丸めてジーンズのポケットにねじ込んだ。悪意はないのだろうが、それだけに率直な感情を表していた。
最近見続けている開かない扉の夢を、何故か強烈に思い出した。
夢のことを考えながら、ご老人たちの前を通り過ぎようとした時、ビラが1枚目の前に差し出されたので手に取ってみる。案の定というか、行政の無能と自分たちの所属する政治勢力が何を主張しているかが書いてあるだけで、内容は薄い。正直1枚5円ほどの価値もない。捨てる手間を考えると貰ったことをちょっと後悔するぐらいのものだ。先ほどの男と同じような行動をとろうかと一瞬手は動きかけたが、それでも僕は何となく踏みとどまってそれをしばらく読んだふりをしながら歩く。デパートに入って、正面すぐにあるエスカレーターに乗ったところでようやくそれを折りたたんでポケットに入れた。
やや眼鏡が曇り始めたので、少しだけ耳元の紐を調節する。嘲笑がかすかに聞こえたような気がしたので、僕は後ろを向いてみる。誰もいなかった。被害妄想。そんな言葉が頭をちらつく。でも、被害妄想を抱かざるを得ないような気もした。2階から3階へと繋がるエレベーターを上りきったタイミングで、電車内で感じ始めていた鬱っぽさが予想以上に足を重たくさせ始めていることに気付いて、僕は8階の本屋へ行くことを断念する。どうせ行ったところで何も買わず、疲れるだけになるのは目に見えているし、目的地にたどり着けない自分は最近夢で見ている自分そのものの姿なので、何だかしっくりくるような気さえする。
到達したばかりの3階から2階へと降りて、外に出る。家を出る時には青かった空が、灰色になっていることに今更気が付く。雨でも降りだしそうなその曇天に背中を押されるように、僕は再び駅の方向へと歩いていく。
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