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1、発熱前の鶏ネギスープ
体の調子が悪いなと思いながら帰宅したのは、午後八時前。
ふらふらの状態で玄関先で靴を脱ぐと、よく磨かれた革靴が揃えられているのが目に入る。それを見て、夫がすでに帰宅しているのを知る。
体や頭が痛いのも、何だか熱っぽいのも、大好きな夫の顔を見たら吹き飛びそうな気がして、私はリビングへと急いだ。
「環さーん!ただいまー」
「ん、おかえり」
「顔を、顔を見せてー!」
「……先に手洗いとうがいをしてきてくんねぇかな」
キッチンに立つ後ろ姿に声をかけてみると、何とも素っ気ないお返事だ。いつものことだから気にならないけれど、私の夫はとてもクールだ。おまけに顔がいい。最高。
手を洗ってうがいをしてリビングに戻ると、夫が仁王立ちしていた。その手には、冷却シートと体温計が握られている。
「いつから体調悪い?」
「んー……帰りの電車に乗ったくらい?」
「はい嘘。今朝、いつもより二重幅が広かっただろ?」
「えーそんなとこまで見てくれてんの?愛じゃん」
ふざけて返すと、ペシャリと冷却シートをおでこに貼られ、体温計を渡される。服を引っぺがして無理やり検温しないあたり、やはり私の夫は紳士だ。
「三十七度三分か……夜中にかけて上がるかな」
「大丈夫。このまま持ち直す可能性もある」
「とか言って、この前夜間診療に連れて行かれたのは誰だよ」
「わたくしかしらね」
これから体調が悪化する予感しかないのが嫌でふざけていると、環さんが深々と溜め息をついた。たぶん、「このバカをどうしてくれようか」と考えているのだろう。悩めるお顔も素敵。
「スープ食べられそう?無理ならアイスも買ってあるけど」
「両方食べる」
「……元気だな」
私の返答を聞いて、環さんがふっと笑った。たぶん、食い意地が張っていると思ったのだろう。クールな夫の笑顔、最高。眩しくて嬉しくて、何だか熱が上がってきた気がする。
「何のスープ?」
「長ネギと手羽中と長芋と生姜のスープ。これに卵と冷ご飯入れて雑炊にもできるけど」
「……スープだけもらう」
「わかった」
私をソファに座らせると、環さんはキッチンスペースに戻っていった。
私が体調悪いことに気づいて、食材を買って私より先に帰宅して用意してくれていたという事実だけで、もうお腹がいっぱいだ。キッチンに立つ後ろ姿を見ると、この望外の幸せを毎度噛みしめることになる。
環さんには、私からプロポーズした。三十歳を目前に焦っていたのもあるし、彼のことが好きだったから当たって砕けろという気持ちでもいた。友人を介して知り合って、たまに飲みに行く仲で、ちっとも私に興味がなさそうだったけれど、そのぶん妙な下心みたいなものが感じられないのが居心地いい人だった。
だからきっと、馬鹿なことを言っても鼻で笑って流されてしまうのだろうなと、「私、結婚ってものがしてみたいんです!そして、できたら夫にするのは見るたびに幸せだなぁと思える好みの顔が良くて、環さんはまさに好みドンピシャの好きな顔なんです!」などと言ったのだ。
お酒の席とはいえ、唐突だったと思う。それでも環さんは慌てることなくジョッキを淡々と空にして、じっと私の顔を見つめたのだ。
「……あんまりこの顔にこだわりはなく生きてきたけど、こういうときには親に感謝だな」
「うん。私も環さんのご両親にめっちゃ感謝してる」
「じゃあ、その感謝を来週末にでも伝えにいくか」
「え?」
いつもふざけている分際で、そのとき私は「この人、何言ってんの?」と思ってしまった。意味がわかっていなかったのだ。
「いや、結婚するんだろ?いいよって言ってんの。だから、今週末はそっちのご両親に挨拶して、来週末に俺の実家に行こうかって意味だけど」
「え……」
そのときたぶん、私はひどく間抜けな顔をしていたのだと思う。それを見た環さんは、とても楽しそうな顔をしていたから。
そんなこんなで結婚して、今も一緒に暮らしている。デレないクールな夫だけれど、私が体調が悪いときには、こうしてたんまり甘やかしてくれるのだ。
「冷ますからちょっと待って」
環さんはそう言って、小鍋に移したスープを水を張ったボールにつけて冷ましてくれている。前に私が熱々のスープに果敢に挑んで口の中をボロボロにしたことがあって、それ以来こうやって冷ましてくれるのだ。まるで扱いが赤ちゃんだ。でも嬉しい。
「ほら、できたぞ」
「わーい!いただきます」
ソファの前のローテーブルに、スープの入ったお椀と木のスプーンが置かれた。このお椀とスプーンを買うと言ったのは私だ。いらないだろと言っていた環さんだったけれど、スープが美味しい季節には大活躍だ。
このローテーブルを買うと言ったのは環さんだった。「体調悪いときダイニングテーブルだと食事するのきついだろ」という理由だったのだけれど、熱を出すたびに彼の慧眼に感謝するしかない。
「ネギとろとろでお肉も柔らかくて最高……環さん、上手だね」
体にいいものがギュッと煮詰まったスープが、疲れた体に染み渡っていく。ちゃんと味はするのに喉にしみることはなくて、飲み込むのに負担がかからない。
「電気調理鍋がやったことだ。俺は材料入れただけ」
「でも、材料買って来てくれたのも切って鍋にセットしてくれたのも環さんだから、環さんが作ってくれたんだよ」
「このくらいならいくらでもしてやるから」
「……このー、愛妻家めー」
私がふざけると、環さんは鼻で笑った。でも、決して否定することはないのだ。
私はデレない夫の優しさを噛み締めながら、彼が作ってくれたスープをゆっくりと味わった。
体調不良はつらい。体が弱い自分が嫌い。
でも、弱ると環さんがとびきり優しくしてくれるから、この体で生きていくのも悪くないなと思える。
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