第〇話 ガラスの箱庭

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第〇話 ガラスの箱庭

 ガラスボールの中を、小さな魚が泳いでいた。  サッカーボールサイズのそれは継ぎ目も上下左右もない完全な球体で、ただ転がらないようにとドーナッツ型の木板に乗せられていた。  敷き詰められた砂利の上を泳ぐ魚たちと、魚の泳ぎに合わせて揺れる水草。たったそれらだけで構成され、完結する、静かで穏やかな世界(箱庭)。開くつくりになっていないのは、光以外の外界からの干渉が必要ないからに他ならない。  まるで祭壇のようにそのガラスボールを掲げる丸テーブルの横、備え付けられたベンチに行儀悪く寝転がったイライザ・アビーは、右手を額に当てて呻いた。左手で探るのは、白い喉元に巻きついた白銀の細い鎖だ。指先の感覚だけで辿っていった先には、彼女の体温で温まった小さな石が鈍い光を湛え、丸い金属枠に嵌められてぶら下がっている。  宝石としてカットされていないそれは、元々ヒトだった。こんな場所で生まれさえしなければ、きっと生きていられただろう生命。こんな場所だったからこそ、無条件に生かしてやれなかった生命。イライザはやるせなさに溢れそうな涙を堪えて唇を噛むと、ぎゅっとそのペンダントヘッドを握りしめた。  濡れて歪んだ視界の先には、丸いドーム状の天井がある。天井の上に群れる小魚が、悠然と横切るエイの姿が、ぼんやりと漂うマンボウの影が見える。初めて訪れた時には水族館の中にでもいるのかと思い、二回目にはドームの壁がアクリルガラスで、外の海が実際に見えているのではないかと思ったくらいだ。  だが実際に壁の外に広がっているのは、生物よりもゴミの方が多い死の海だし、ここは水深二〇〇メートルの海底なので、太陽光はぼんやりとしか届かない。それは、他エリアにつけられた窓でイライザも確認している。誰に聞いた訳でもないからこれはイライザの推測でしかないのだが、恐らく天井はスクリーンになっていて、人が思い描く理想の海中を映し出しているのではないか。  エイの尾が視界から消えると、イライザは手で目を覆い一つ溜息をついた。  ガラスボールが置かれたドーム状の部屋など、まるでこの部屋が、否、この建物そのものが箱庭であると、を造った人間たちを揶揄するようなデザインではないか。だとすればここの設計者はなんとも、あの男を想起させる程度には性格が悪い。  指の合間に、水面から差した光が揺れる天井が見える。  今しがた思い出した、極東の血を色濃く引く黒目黒髪のあの男は、何故ここにいないのか。悪態の一つでも吐きたくなる。もしかすると彼はこうなることが分かっていたのかもしれない。そう考えると、記憶にある人を喰ったような笑みが鮮やかさを増した。  イライザが師と仰ぐその男は、その深い化学の知識と生み出してきた素材の実績を買われ、今、ここにイライザと共にいるはずだった。実際に近くまでは彼女と一緒に来ていたというのに、直前になって突然「子猫ちゃんを迎えに行く」などと意味のわからないことを言い出し、そのまま姿を消したのだ。何かを察知したとしか思えない。  逃げ足が速いのは結構だが、一応でも弟子を名乗るイライザに少しでいいからその素早さを分けて欲しかった。彼女をこんな所に置き去りにして、子猫と平和な地上生活を満喫しているのなら、再会した時に五回くらいはぶん殴っていい気がする。  あれは残念なくらいに優秀な男だと、イライザも彼の実力は認めていた。だから少なくともここで一騒動終わって落ち着くまでは決して戻っては来ないだろう。賭けてもいい。賭けてもいいが、彼女には生憎賭ける物も相手もいなかった。  二度目の溜息と共に目を閉じる。力が抜け、自重で目の上から滑り落ちた手が、濡れた感触を伝えてくる。思わず声が、吐息と共に溢れた。 「早く帰りたいです、師匠……」 『なんだい、音を上げるのが早いじゃないか』  そんな返答が聞こえたような気がした。  科学技術を持って人類は地上を制覇し、栄華を極めた。  だがそれも僅かひと時のこと。科学によって蹂躙された自然はやがて人間に牙を剥き、数多もの自然災害がヒトの街を襲った。  少しでも状況を改善しようとヒトは口々に環境保護を叫んだが、一体誰が戻れるというのか。車がなく、重い荷物を抱えて時に丸一日歩かなければ物資の入手もできないような生活に。生活インフラが断たれ、隣人との自給自足で生きていかねばならない暮らしに。怪我や病気をしても、ただ寝ていろと言われるだけの治療に。ワクチンさえあれば、薬さえあれば治る病で命を落とすしかない世界に。  科学技術がもたらした豊かさに、便利さに、安全に、ヒトは慣れすぎてしまったのだ。近い未来、大災害に見舞われると知ってなお、自らの排出した汚染物質で地上がヒトの住めるような環境でなくなると予想されてなお、科学の恩恵を手放せないほどに。 「一大科学都市を築こう」  そう最初に提案したのは誰だったのか。 「人類が持つ最高峰の科学技術を集結し、都市内だけで生活の全てが完結するような、そんな巨大建造物を造ろう。都市の中では快適な生活が保証され、自然災害に怯えることはもうない——地上は、自然が持つ回復力に任せておけばいいのだ」  かくして、海底科学都市は築かれた。
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