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縁側を見たときの驚きを、一体何と表現しよう。不審者とでもとりあえず叫んでおくべきだっただろうか。
いや、どんな反応をしたところで、彼は面白がるだけに違いない。
庭に面した居間の縁側で、その男は西瓜を切っていた。
天井裏に荷を持ち上げた音が目覚まし代わりになったのだろう、既に起きていた蛍火は初めて目にする西瓜と、それを切り分ける男を興味深そうに見つめていた。そんな二人の上で、吊り燈籠がゆらりゆらりと揺れている。
白地に赤いハイビスカス柄のアロハシャツ。ベージュ色の半ズボン。これでサングラスでもかけていれば、どこのビーチに寝転がっていてもおかしくはないだろう。
そんな男が、池はあれども砂浜はない我が家の庭に何に用だと問いただせばよかったのか。それとも、うちの娘に何をする、と蛍火を引き離せばよかったのか。選択肢が多すぎる。
綺麗な三角形に切り分けられた西瓜を差し出されておずおずと受け取った蛍火は、男の顔を見、西瓜を見、羽をぱたりと動かして齧り付く。
もしあれば、尻尾までぱたぱたさせそうな満面の笑みが広がった。
「ヒョーガさん、海水浴場はここじゃあないですよ?」
「どうしたんだい、突然敬語なんか使って」
「どうしたもこうしたも、驚きすぎて? まさか蛍火を餌付けしに来たとか」
「まさか。折角だから季節の風物詩を一緒に楽しもうと思っただけだよ」
ようやく棕櫚を見た男の目には、やはりと言うべきか、面白がっている色がある。
今となっては大陸の血が混じり全体的に色素が薄くなっている中で、平外(ひょうが)と呼ばれた彼の持つ黒目黒髪は、棕櫚たちが住むこの島の血を濃く引いている証だ。
彼はぱっと見、無精髭を生やしている棕櫚よりも年下に見えるが、遥か年上であるような雰囲気も醸し出していた。
「それだけの為にわざわざ西瓜なんて買って遠路遥々こんな所まで?」
「いや? 途中で悪魔の話を耳にしたんだ。まぁ、どっちがついでかはともかくとして、ね。で?」
怪しげな底光りを見せた平外の目に不穏な気配を察知して離れようとした棕櫚だったが、彼が動くよりも速く腕を掴まれ、ぐいと引き寄せられる。
ずいと顔を近づけられた至近距離で、目を逸らすことすら許されずに囁かれた。
「彼女じゃあ、ないんだろう?」
盛正平外。
かつて己が師事した男の言葉の裏の意味が取れないほど、棕櫚は出来の悪い生徒ではない。
「……さっきも似たようなことを言われたけど、悪魔なんてこんな片田舎の個人宅にいる訳ないだろうに」
無理に視線を外してようやくそれだけ言うと、平外はようやく棕櫚を離した。
「心優しくて病弱だった双子の妹を殺して逃げたんだって、その子」
淡々と告げられた事実に、棕櫚は思わず姿勢を正す。
「事実だけが全てじゃない。ケイちゃんのことも気にはなるけど、まずは悪魔な彼女の方が先だ」
正された背筋に、冷や汗が伝った。
『マリちゃん、ごめんね。あたしがもっと身体強かったら、お母さんにあんなこと言われなくて済むのにね』
えぐえぐと私に抱きついた少女が泣く。ごめんね、とひたすら繰り返す声が頭に響く。
蹴られ殴られた体のあちこちが軋み、痛みを通り越して吐き気がする。
『あたしが病気がちなのは、マリちゃんのせいじゃないんだからっ!』
つんざくような甲高い声が、耳に痛い。
「ねぇ棕櫚。マリーちゃんと一緒に食べていい?」
西瓜のみの朝食の後、割と早めの昼食の席で、カレーをよそってもらった蛍火は器を受け取りながらそんなことを言い出した。
自身の器に炊きたてほかほかの白米を盛りながら「うん?」と棕櫚は聞き返す。
「マリーちゃんって、食べれたのか?」
「食べれるよぉ。棕櫚、なに言ってるの?」
信じられないと顔全体で表現した蛍火は、追い打ちをかけるように続けた。
「お煮付けじゃなくなったから、マリーちゃんも食べるって!」
「それは悪いことをしたなぁ。冷めないうちに食べてくるといい」
流し台の上に作り付けられた棚の上、茶碗の中に無造作に突っ込まれた匙を二本、彼が蛍火の椀の中に突き立ててやるのを、卓に頬杖をついた平外が喉の奥でくつくつと笑う。
「ヒョーガさん、その笑いのツボってどこ?」
「いーや。ところでマリーちゃんっていうのはケイちゃんの人形かと思ってたけど、違うみたいだね」
誰だい、と視線で問われ、棕櫚は肩をすくめて返した。
「今は蛍火の人形で正しいなぁ。少なくとも悪魔じゃあない」
「どうして言い切れる?」
「悪魔は自分の心を壊さないだろ?」
「なるほどね。たださっきも言ったけど、事実が全てとは限らない。悪魔だって心を壊すこともあるかもしれないよ」
どこまで真実を知っているのか、まるで背後関係まで見透かしたような台詞だ。
「ねぇ、棕櫚もヒョーガもいつ来るの? 冷めちゃうよぉ」
きっとマリーちゃんの前に座って匙を両手に握りしめたまま二人が来るのを今かと待ち構えているだろうその声に、二人は揃って振り返った。
「ヒョーガさんも白米でいい? 突然だったからパンとかなくってさぁ」
「そんなことを気にしてたのか。オレはパンを好むけど白米が嫌いなわけじゃないし、第一オレが自分で料理してるならともかく、押しかけてきた挙句に料理までさせてるときたら、文句を言えるような立場にはないね」
「だと楽で助かるなぁ。蛍火はあぁだし」
「かわいいじゃないか」
渡された椀を片手に、平外は先導する棕櫚に続く。
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