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第0話 黄昏灯篭の屋敷
畳敷きの居間より一段下がった、恐らくは土間と呼ばれる部屋に、その男はいた。
紺色の着物と袴に白の詰襟シャツという、何の変哲も無い書生の出で立ちで、特筆するとしたら、長く伸ばされた前髪が左目を隠していることくらいだろうか。
彼が立つ土間は狭かった。
元々二畳ほどの広さであろうが、片隅に陣取る流しと竃、その横に置かれた壁一面を覆う機械が、半分以上を埋めていた。
機械は基本的に真鍮の管と歯車を組み合わせたもので、所々からレバーが伸びている。あちらこちらで回る歯車はカタカタと音を立て、パイプからは時折プシューッと勢いよく蒸気が噴出した。足元には焚口が大きく開いており、竃と並んでくべられた薪がパチパチと爆ぜている。
この機械は、この家で快適に過ごすために、拾ってきた部品を繋ぎ合わせて彼が作ったもので、この家の動力源でもあった。
さて、そんな大事な機械の目の前で、しかしそれには目もくれずに、男は升で白い粒の量を計っていた。
目線の高さで、縁すれすれ一杯まで入っていることを確認すると、満足したように小さく頷いて流しの中、水が張られた大きな器の上に置かれた網に移す。そして手早くシャッシャと掻き混ぜるとすぐさま網を水から引き上げ、白濁した液体が器には残された。
いつもならば無意識にも近い流れ作業で捨ててしまうそれを、男は何の気なしに覗き込んだ。
左目に黒い前髪が無造作にかかった無精髭の男の顔が、ぼんやりと映っている。
網から落ちた水滴に水面が揺れると、男の顔がいびつに歪んだ。
「楽しくなりそうだなぁ」
カタカタカタと歯車が回り、ポーンと軽快な時報が鳴る。
白く濁った水を感慨もなくざばりと流すと、ちょうどその時背後に、タンクトップで膝丈の、白い薄手のワンピースを着た少女がひょこりと顔を出した。
「そんなこと、機械にやらせればいいのに」
米を鍋に入れた男は、流しにかけてあった手ぬぐいで水分を拭うと、畳の上で体育座りをしている少女の頭をぽんぽんと撫でた。
背の中程まで伸ばされた真っ白な髪に、男を見上げる紅の瞳。透けるほど白い肌は、色素欠乏症特有の見た目である。折れそうなほど細く、華奢な身体は、彼女を実際の年齢よりも幾分か幼く見せていた。
だが、彼女の容姿を語る上で一番重要なのは、彼女の背に生える一対の白い翼であろう。鳥のようなそれは、彼女の背後ではたはたと小さく羽ばたいた。
「あんまり動き回るなって、蛍火。この間転んで足の骨折ったばっかりじゃないか」
「だって棕櫚が遊んでくれなくって暇なんだもん。じゃあ今日は今から遊んでくれる?」
上目遣いに見上げてくる少女、蛍火の髪を、頰を、そっと撫でながら、棕櫚と呼ばれた男はゆるく首を振る。
「今日はお客さんが来そうだから、また今度な」
「棕櫚ってば、いっつもそればっかり。もういいわ、マリーちゃんと遊んでくるもん」
「うん、良い子だ」
褒められてしまったのが更に面白くなくて、彼女はあっかんべーと舌を出しながらそのまま走って奥の部屋に行ってしまった。
そんな彼女の後ろ姿にひらひらと手を振ると、棕櫚は思い出したように手をぽんと打った。
「そういえば僕は、飯の準備をしていた」
いそいそと水を計ると鍋に入れ、かまどに置く。薪をくべてしゃがみこみ、肩越しに振り返ると「おいで」と声をかけた。
すると、彼の呼びかけに応えるように、カチャカチャと軽い金属音を立てながら、小さな「トカゲ」が居間の床下から走り出る。それは歯車とゼンマイ、そして腹側に入れられた水素タンクからなる、火を起こすために作られた機械仕掛けのトカゲだ。
この屋敷には似たような機械が沢山あるが、米だけは必ず普通の鍋と竃で炊いていた。理由は単純に、その方が美味しく出来上がるから。趣味で炊いているとも言えよう。
トカゲがくべられた薪に威嚇するかのように大きく口を開けると、ボッと音がして着火した。
「今日も絶好調だなぁ。ありがと」
かけられる棕櫚の声を背に、「トカゲ」は元いた場所に戻っていく。
「んー、お腹空いて来たな。早く炊けないかな」
米の入った鍋を見つめたまま、棕櫚は左手を機械の表面に滑らせた。手探りで探り当てたレバーをぐいと力任せに引っ張ると、機械上部に放り込まれた野菜がごろごろと機械内部に落ちていき、几帳面に細断されて下部に置かれた鉄箱に入る。
こちらは自動的に火が入り、勝手に調理が始まった。
炊き上がる米の匂いに釣られたのか、マリーちゃんと遊ぶのに飽きたのか、再び居間に現れた蛍火はごろりと畳の上に腹ばいになった。
暫くは土間で火の調整をしている棕櫚を眺めていたが、それにも飽きるとずるずると這って縁側に続く障子に近づくと、閉まっている戸を軽く引いた。プシューッという蒸気の音が部屋の外から聞こえ、一面の障子がするすると左右に分かれて開く。
開かれた障子の向こうに広がるのは、途中に小さな橋のかかった池と、その脇に立てられた背の低い石灯籠。それらが縁側から池まで続く飛び石と共に、傾きつつある日差しに照らされていた。
空に赤みが増して行くと、灯篭に橙色の明かりが灯る。パシャリと魚が跳ねたのか、水面に映る陰が小さく揺れた。
「あまり身体を冷やすものじゃない」
土間から上がって来た棕櫚がちゃぶ台に皿を並べながら声をかけると、蛍火はすぐさま起き上がって円いちゃぶ台の前に座った。彼女は並べられた料理を一瞥すると、どかりと斜め前に座った彼を上目遣いに見やる。
「わたしが贅沢なだけかもしれないんだけどね、あのね、そろそろお煮付け以外が食べたいな?」
彼はそんな彼女に一つ重々しく頷くと、
「そうだね。君はいつだって贅沢なんだ。いただきます」
とさらりと流して徐ろに食べ始める。
蛍火は憮然とした表情で黙々と食べる棕櫚を見ていたが、きゅうとお腹が鳴ると空腹には耐えられなかったのか、大人しく箸を手に取った。
「お客さん、来なかったじゃない」
茶碗を半分ほど空にしたところで、蛍火は蓮根の穴に箸を通したまま棕櫚に声をかける。彼は既に食べ終わっており、背後に両手をついたのんびりとした姿勢で、彼女が食べ終わるのを待っていた。
「そういえばそんなことも言ったかな」
「言ったもん! だから我慢してマリーちゃんと遊んでたのに。棕櫚の嘘つき」
「嘘じゃないよ? だって」
冷める前に食べてしまって、と蛍火を促しつつ、彼はシャーッと何かがレールを走る音を聞いていた。
その音は徐々に近づいてくると、丁度蛍火の真後ろ、頭上あたりで止まる。
「ほら来た」
棕櫚はそれが何か確認もせずに、ただ指差す。
蛍火が反り返るように示された方を見れば、先ほどまでなかった、古い真鍮の吊り灯籠が軒先に揺れている。それは確か玄関にあったものだと、彼女は記憶していた。
「しっかり食べるんだよ。じゃあ、僕は客を迎えてくる」
ぽん、と彼女の頭を撫でると、棕櫚はひらひらと手を振って縁側から出て言った。
再びシャーッという音がして、灯篭が彼の後に続き、蒸気の音と共に障子が閉まる。
玄関先に来訪者の姿を認めると、棕櫚は右手を胸に当て、うやうやしく一礼した。
「ようこそ。お探し物は何でしょうか」
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