21人が本棚に入れています
本棚に追加
第一話 直感的な嫌な予感
美咲がそのメールを開いたのは、午前七時四十五分頃だった。
幼馴染み兼恋人である、洋平からのメール。
見た瞬間に、異常な内容だと分かるメール。
そのメールを見る瞬間まで、今日は、いつもと変わらない一日の始りだった。いつもの日常が始まるはずだった。
しかし、そのメールをスタート地点として、美咲の未来は大きく揺らぐこととなった。
美咲の平日は、朝の目覚まし時計の音から始まる。
それは、今から一時間二十分ほど前。
――目覚まし時計の音で目を覚ました。
ピピピピッ、ピピピピッという音が耳に刺さる。枕元の目覚まし時計。スヌーズ機能は、五分置きに設定している。
時刻は、午前六時二十分。
美咲は布団から手を出した。叩き付けるようにして、目覚まし時計を止めた。
十一月初旬。北海道の気温はすでに低い。布団から手を出した途端に、室内の空気の冷たさを感じた。
寒さが、美咲の意識を覚醒させた。いつもは、三度目のスヌーズでようやく目が覚めるのに。今日は昨日までより、一段と寒い。
まだ布団の中に入っていたい。自分の欲求を抑えて、美咲は上体を起こした。グーッと体を伸ばす。布団から出た体が冷やされ、ブルッと震えた。
寝起きにも関わらず、誰もが振り返るほどの美貌。シャワーを浴びて表情が引き締まると、その美貌はさらに増す。そんな少女だった。十七歳。高校二年。背中まで伸ばした長い髪は、寝癖でクシャクシャになっている。それでも、美貌は損なわれていない。部屋にある姿見には、綺麗な顔が映し出されている。
美咲はベッドから降り、立ち上がった。
フローリングの床は、顔をしかめるほど冷たい。それなのに、美咲の表情は動かなかった。
美咲の美貌にただ一つ欠点があるとすれば、それは、あまりに無表情なことだった。気持ちが、驚くほど顔に出ないのだ。喜びも悲しみも、怒りさえも。
美咲は、そんな自分があまり好きではなった。
美咲は無表情のまま、寒さを堪えるように自分の体を抱き、部屋から出た。
市内の一戸建て。美咲の部屋は二階。
部屋から出ると二階のトイレで小用を済ませ、階段を降りた。
階段を降りてすぐのところに、一階のトイレと玄関がある。玄関前を通り過ぎると、リビングのドア。
玄関前を通って、美咲は再度、体を震わせた。自分の部屋よりも寒い。もうそろそろ、初雪が降る時期だ。来月には道路が根雪が隠され、本格的な冬がくる。
今年のクリスマスは、洋平と、どうやって過ごそうかな。彼と付き合ってから三度目のクリスマスを、美咲は思い浮かべた。
洋平の家は、すぐ近所の市営住宅。美咲の部屋の窓から、彼の家が見える。自分の気持ちを、素直に顔に出せる彼。
美咲は、洋平のことが誰よりも好きだった。自分の命よりも大切だと断言できるほどに。
大好きな人と迎えるクリスマスを思い浮かべても、美咲の表情は動かない。心の中は、楽しみで楽しみで跳ね回っているのに。
リビングのドアを開けた。リビングの奥にあるダイニングから、旨そうな匂いが漂ってきた。
「ああ、美咲。おはよう」
母親の咲子が、弁当を作っていた。
「おはよう、お母さん。とりあえずシャワー浴びてくる。お弁当は後で自分で詰めるから、置いておいて」
「別にいいよ、それくらい。大した手間でもないし」
美咲は、咲子と二人暮らしだ。咲子と父親は離別。美咲が産まれる前――咲子が妊娠中に離婚したらしい。
美咲は、咲子に、父親のことを聞いたことがある。高校に進学する直前だった。顔も知らない父親は、どんな人で、今どこで何をしているのか。
もうすぐ高校生になる美咲を前に、咲子は「あんたももう子供じゃないから」と、包み隠さず事実を話してくれた。離婚時に弁護士が用意してくれた、古ぼけた資料を前に。
両親の離婚原因は、一言でいえば父親の暴力だった。妊娠中にも関わらず暴力を振るう夫に対し、咲子は離婚を決意したという。
咲子は離婚後、結婚前から働いていた法律事務所に復職した。妊娠を機に退職したが、彼女はもともと弁護士だった。当時の稼ぎは父親よりも多かったそうだ。離婚時に担当した弁護士は、当時の彼女の同僚だという。
復職した咲子は、美咲が小学校四年になる頃には、もとの稼ぎを取り戻した。さらにその二年後には、離婚時に対応した同僚と共同経営者として独立した。
事務所の経営は順調のようだ。社用車は、二年ほど前に、軽自動車から一般乗用車に替わった。車が大きくなった分だけ、事務所の利益が大きくなったのだろうと想像できた。
中古とはいえ一戸建てを購入できたのも、事務所の経営が順調だからに違いない。
そんな成功者とも言える咲子だが、時々何かに怯えているような様子を見せることがある。
いや。怯える、という言葉はやや語弊がある。自分や我が子を守ろうとする、手負いの獣のような雰囲気。震えながら絞り出す闘争心。
そんな時は、きっと、暴力に怯える依頼者の対応をしているんだ。咲子自身と同じような境遇の依頼者の。
咲子は本来、それほど強い女性ではない。美咲は、母親の弱さに気付いていた。片親であることを、隠れて一人で悩んでいることもある。悩みながらも彼女は、美咲を守りながら、死の物狂いで生きてきたのだ。
美咲は、ダイニングの奥にある風呂場に足を運んだ。パジャマを脱いで、浴室に入った。
床のタイルは、美咲の部屋の床よりも冷たかった。思わず、ひゃっ、という声が出た。浴室内の鏡に、美咲の顔が映っている。声が出るほど冷たかったのに、表情はまるで動いていなかった。
シャワーを浴び終えて髪の毛を乾かし、軽い朝食を食べて歯を磨いた。乾いた長い髪の毛を整え、登校する準備をする。
自分の部屋に戻って制服を着た。時計を見ると、七時四十五分だった。支度を終えるのが、いつもより十分ほど早かった。スヌーズ機能に頼ることなく、一度目のアラームで起きたからだろう。
美咲と洋平は、同じ高校に通っている。市内でも有数の進学校。いつも彼が八時頃に迎えに来て、一緒に登校している。
洋平が来るまで、あと十五分くらいか。美咲は自分のスマートフォンを手に取り、メールアプリを開いた。未読件数が二十九件になっていた。
メールは、数年前まで、通話以外の連絡ツールの主流と言えた。しかし、チャットアプリが登場してから、個人レベルの連絡でメールを使用する人は激減した。
チャット登場後にメールを使用するケースは、ネット通販でのやり取りや飲食店の予約をする場合が主となった。受信するのは、利用した店の連絡メールや広告メール。もしくは、迷惑メールか。
急いで確認する必要があるものは、ほとんどない。だから美咲は、暇なときに、溜まったメールをまとめて確認するようになっていた。
受信していたメール二十九件のうち、二十八件は、想定通りの内容だった。過去に利用した店からのメール。迷惑メール。
しかし、一件だけ、想定外のものがあった。
送信者の欄に、村田洋平、と表示されていた。恋人の名前。受信時刻は、昨日の午後八時ちょうど。
不自然なほど切りのいい時間に届いているのは、偶然か。それとも、送信予約の設定をしていたからか。
美咲はメールを開いてみた。本文を見た瞬間、変わらない表情のまま、目だけが見開かれた。
『今日は、誰から連絡があっても絶対に家から出るな。俺からの連絡だったとしてもだ』
明らかに不穏さを感じるメールだった。そもそも、こんな短い文面をメールで送ってくること自体、不自然だった。チャットを利用するようになってから、洋平とメールのやり取りをしたことはない。少なくとも、美咲の記憶にある限りは。
普段はメールを使用しない洋平から、不穏なメールが届いた。不自然なほど切りのいい時間に。
洋平は、無駄な悪ふざけをするような人ではない。美咲に対して、悪ふざけのような連絡をしてきたこともない。
そんな彼が、こんなメールを送ってきた。
美咲の心が、急激に重みを増してきた。水でも注がれているようだった。綺麗な水ではない。真っ黒く濁り、粘着質で、不快感を覚えるもの。血の気が引いてゆく重さ。
胸が苦しくなるほどの、嫌な予感。
根拠のない予感ではなかった。心当たりのある、嫌な予感。
時刻は、七時四十八分。
部屋を出て、美咲は階段を駈け降りた。
「行ってきます」
リビングの咲子に、声を掛けた。嫌な予感が、頭から消えない。
美咲は早足で家を出た。
最初のコメントを投稿しよう!