22人が本棚に入れています
本棚に追加
洋平を迎えに行ってみよう。もし何もなければ、彼はまだ家にいるはずだ。
自宅を出て、美咲は洋平の家へ向かった。
美咲と洋平の家の距離は、徒歩で三分ほど。
今の美咲の家は、以前住んでいたアパートから徒歩二分ほどしか離れていない。今の家に引っ越す前から、洋平と美咲はすぐ近所に住んでいる。
咲子がそんな場所の家を買ったのは、洋平の母親――洋子と離れたくなかったからだろう。美咲はそう考えていた。咲子と洋子は、昔馴染みのように仲がいい。洋平と美咲が付き合い始めたことを、二人揃って喜んでいた。
洋平の家に向かう美咲の足は、自然と速くなっていた。走るつもりなどないのに、駆け足になっていた。
洋平の自宅は、市営住宅の五階。彼の家の棟に入ると、階段を一段飛ばしで駆け上がった。
息を切らしながら階段を上る。
美咲の頭の中に、五味秀一のことが思い浮かんだ。同級生で、別のクラス。進学校に在籍しながら、素行の悪さが目立つ男。父親の威を借りて、好き勝手している。洋平と付き合っているからと何度も断ったのに、しつこく美咲を口説いてきた。
美咲の心の中に、嫌な予感が広がってゆく。洋平は、五味に何かされたのではないか。そう考えると、先ほど見たメールも辻褄が合う気がした。五味に呼び出された洋平が、万が一のために、注意喚起のメールを送ってきた。
洋平のことを思うあまり、美咲は、自分の思考が短絡的になっていることに気付けなかった。
市営住宅の階段を、五階まで登りきった。
美咲は、洋平の家のインターホンを押した。
ほとんど間を置かず、家の中からパタパタと走る音が聞こえてきた。
ガチャン、と鍵が開く。
ドアが開いた。
「洋平!?」
ドアを開けたのは、洋平の母親――洋子だった。小柄な体。ショートボブの髪の毛。年齢は咲子の五つ下のはずだが、かなり若く見える。今は、寝不足を物語るように、目の下に隈ができていた。
やっぱり、洋平の身に何かあったんだ。ただ事ではない、何かが。
洋子の様子を見て、美咲はそう悟った。普段なら実年齢よりも十歳は若く見える洋子が、目の隈と疲労のせいで、かなり老けて見える。
洋平は、洋子と二人暮らしだ。父親とは死別。洋子が妊娠中に、事故死したという。
咲子と洋子が親しいのは、気が合うという理由だけではない。妊娠中に独り身となり、女手一つで子供を育てている。共通の境遇が、彼女達を親しくさせたのだろう。
「ああ、美咲ちゃん。ごめんね」
美咲を見て、洋子は深く溜め息をついた。彼女の様子から、洋平が家に帰っていないのは明らかだった。
「おばさん、洋平は?」
「帰ってきてないの。昨日から」
洋子は、介護職に就いている。夜勤もあるハードな仕事だ。
今の洋子の顔は、夜勤明けのときよりも疲れ切っていた。心労だろう。
「連絡もないの?」
洋子は、隈のできた目を伏せるように頷いた。
美咲は、制服――ブレザーの内ポケットから、スマートフォンを取り出した。
「私、洋平に電話してみる」
スマートフォンの通話履歴から洋平の名前を見つけ出し、通話アイコンをタップした。
『お架けになった電話は、電波の届かないところにあるか、電源が入っていません』
無機質なガイダンスの音が、美咲の耳に届いた。
心臓の鼓動が速くなるのを、美咲は感じていた。嫌が予感が、どんどん膨らんでゆく。
「駄目。通じない……」
「私も、昨日の夜から何度も電話してるんだけど。全然通じないの」
洋子の声は弱々しい。彼女の心労が伝わってくる。
「おばさん、ちょっと待ってて。私、お母さんに電話してみる」
美咲は、通話履歴の中から咲子の名前を探した。見つけた。通話アイコンをタップ。
四度目のコールで、咲子が出た。
『美咲、どうしたの? 忘れ物?』
「お母さん、あのね、洋平が、昨日から、帰ってないみたいなの。電話も、通じなくて」
『洋平君が? なんで?』
咲子の声が、少し上ずった。
「えっと、その……分からない」
美咲の表情は、いつもと変わらず動かない。それでも、心は乱れている。焦りのせいで、言葉が上手く繋げられない。話が途切れ途切れになってしまう。言葉一つを発するのに、いちいち呼吸が必要なほど息苦しい。
「それに、ね。実は、昨日の夜に、洋平から、変なメールが来てて。メールなんて、滅多にしないのに。私も、そのメールに、さっき、気付いたんだけど」
焦りで呼吸が浅くなる。表情はまったく動かないのに。あまりにアンバランスな、心と表情。
『美咲、落ち着いて』
大声ではない、しかし強い声が、電話の向こうから返ってきた。
咲子の声に刺激されて、美咲の肩がブルッと震えた。
『私も、今からそっちに行く。あんたは、そのまま学校に行きなさい。もしかしたら、洋平君が来るかも知れないから』
咲子の声は力強かった。とはいえ、少なからず動揺しているはずだ。冷静に行動できるよう、自分をコントロールしているだけで。
『もし、洋平君が学校に来ていたら、すぐに連絡して。もし来ていなかったら、あんたが洋平君から送られたメールを、私に転送して』
「うん、分かった」
美咲は頷いた。
「お母さんはどうするの?」
『今からそっちに行って、洋ちゃんと警察に行く。仕事は、相方に事情を話して遅刻していく』
美咲は、今度は無言で頷いた。喉がカラカラに渇いて、声が出ない。
『私が今から行くこと、洋ちゃんに伝えて。そしたら、すぐに学校に行きなさい。いい、洋平君が来ていたらそのことを、来ていなかったら、あんたが洋平君から送られたメールを、私に送って』
再度、咲子は同じ指示を繰り返した。彼女の口調は念を押すようであり、同時に諭すようでもあった。美咲の焦りの大きさを感じ取ったのだろう。
美咲は、口の中を唾で湿らせた。唇を舐める。小さく息をついて、咲子に返答した。
「わかった」
美咲は電話を切った。洋子の方に向き直る。
「おばさん、今からお母さんが来るから。一緒に警察に行く、って。私は、このまま学校に行って、洋平が来るかどうか確かめる。確認したら連絡するようにって、お母さんに言われた」
警察という単語を聞いて、洋子の肩が震えた。自分の息子が、事件に巻き込まれた可能性がある――その現実を、警察という言葉で実感したのだろう。
洋子は、愛情深い優しい女性だ。そんな母親に育てられたからこそ、洋平も、優しく強く育ったのだ。
すでに義母のように思っている洋子を、美咲は慕っている。
美咲は、意識して口の端を上げた。基本的には無表情だが、それは、感情が表に出にくいだけだ。顔の筋肉を動かせないわけではない。意識すれば、表情を変えることはできる。
「大丈夫だよ、おばさん」
美咲は、洋子の肩に手を置いた。
「もし何かあったんだとしても、洋平は強いんだから。おばさんも知ってるでしょ?」
洋子を励ますように。自分自身にも言い聞かせるように。美咲は、断言した。
「だから、絶対に大丈夫」
「……そうだね」
小さく、弱々しく、洋子は頷いた。
洋子と一緒に頷きながら、美咲は、胸中で何度も繰り返した。
大丈夫。洋平なら、大丈夫。
洋平なら、絶対に大丈夫。
最初のコメントを投稿しよう!