第二話 嫌な予感を塗り潰すように、自分に言い聞かせる

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第二話 嫌な予感を塗り潰すように、自分に言い聞かせる

 学校に着いて教室に入ると、美咲は周囲を見回した。  時刻は八時四十分。あと五分でホームルームが始まる。  いつもなら、洋平と一緒に登校している時間。一緒に登校して、同じ教室に入り、それぞれの席に座る時間。  教室内に、洋平はいなかった。  八時四十五分になり、チャイムが鳴った。クラスの担任が教壇に立ち、ホームルームを始めた。  洋平は来ていない。  ホームルームが終わると、担任の教師が美咲のもとに来た。その表情には、困惑の色が見て取れる。 「村田はどうしたんだ? 休みか?」  美咲と洋平が恋人同士だということは、周知の事実だった。美咲自身も隠そうとはしていなかった。むしろ、周囲に知って欲しいとさえ思っていた。  美咲は、その容貌から、男子に人気がある。洋平と付き合い始めるまでは、頻繁に告白されていた。その数が、彼と付き合っていることを知られてから激減した。  もっとも、一番諦めて欲しい男は、いつまで経っても諦めてくれないのだが。    意識を担任の方に戻した。 「昨日から家に帰っていないみたいなんです。もしかしたら学校に来るかも、って思ってたんですけど」 「そうか。とりあえず、村田の家に電話してみるよ。悪かったな」 「いえ。私も、電話してきていいですか?」 「村田のお母さんにか?」 「いえ。私の母にです。洋平が学校に来ていなかったら連絡するように言われていたんで。私の母と洋平のお母さん、仲がいいから」 「そうか。何か分かったら教えてくれ」 「はい」  洋平は、ボクシングの試合以外の理由で学校を休んだことがない。成績も優秀。絵に描いたような文武両道の優等生だ。そんな彼が、連絡もない状態で学校に来ていない。担任が驚くのも当然だった。  美咲は席を立ち、廊下に出て咲子に電話を架けた。今度はすぐに――一回目のコールで電話に出た。 『学校に着いたの?』 「うん」 『洋平君は?』 「……来てない」  相変わらず、美咲の表情に変化はない。心の中は、不安で満たされているのに。黒く重い不快感で溢れかえっているのに。  変わらない表情のまま、美咲は顔を伏せた。 「昨日の洋平からのメール、お母さんに転送しておくね」 『うん、お願い。私はこのまま洋ちゃんを連れて、警察に行ってくる。警察にそのメールを見せて、捜索願を出すつもり。警察がすぐに動いてくれるかは、微妙なところだけど』  気持ちのうえで、美咲は眉をしかめた。表情は動かないが。 「どういうこと? 警察が動いてくれるかは微妙、って」 『単なる家出だと判断したら、警察は動いてくれないの。事件に巻き込まれた可能性が高いって判断してくれないと。あんたが受け取ったメールの内容にもよるけど、微妙だと思う』 「何で!?」  つい、美咲は声を荒くした。  咲子は、冷静に言葉を返してきた。いや、冷静でいようと務めている、という方が正しい。 『事件性の低いことに対してすぐに動き出すほど、警察は優しくないの。警察は正義の味方でも市民の味方でもない。ただの公務員で、ただの職業のひとつなんだから。だから、私なりに対策を立てるつもり』 「対策?」 『それは、あんたが返ってきたら話す。長くなるから』  冷静な口調の直後、咲子の口調は、唐突に優しくなった。 『安心して。あんたや洋ちゃんが不安にならないように、できる限りのことをするから。弁護士なんてしてるから、こういったことの経験値だってそれなりにあるんだし』  冷静でいながら、優しい口調。そんな母親の声を聞いて、美咲は、彼女の様子を思い浮かべた。たまに見せる、手負いの獣のような雰囲気。恐れ、震えながらも、大切なものを守ろうとする姿。  咲子はきっと、こんなふうに美咲を守り、育ててきたのだ。美咲が産まれる前――暴力を振るう夫と別れるときから。妊娠しているときは、夫の暴力から、腹の中の美咲を守ってきた。美咲が産まれてからは、小さな我が子の手を取って戦ってきた。  決して強い人ではないのに。 「お願いね、お母さん」 『任せておいて』 「おばさんの様子はどう?」 『今、学校の先生から電話がきたみたいで、話してる。かなり疲れてるみたい。当然だけどね』  登校前に見た洋子の顔を、美咲は思い浮かべた。夜勤明けで疲れているときでさえ、実年齢より若く見える彼女。今朝は、ずいぶん老け込んで見えた。大切な息子に、何かあったら――そんな不安に押し潰されそうになっているのだ。 「おばさんも助けてあげて、お母さん」 『当然でしょ。洋平君からのメール、お願いね』 「わかった」  美咲は電話を切った。すぐに、洋平から来たメールを、咲子のメールアドレス宛に転送した。昨夜の午後八時ちょうどに届いたメール。不穏な内容のメール。  美咲の頭の中に、再び、五味のことが思い浮かんだ。洋平の家に向かう途中も思い浮かんだ人物。同じ学年で別のクラスの、しつこく美咲を口説いてきた男。  五味秀一は、一言で言えばこのような人物だった。 「『何とかに(はさみ)』を体現している男」  父親は、大手建設会社の代表取締役社長。祖父は、その会社の名誉職である会長。圧倒的に裕福な家庭に育ち、()(まま)に育てられたのが分かる性格。その噂は、彼と知り合う前から、美咲の耳に入ってきていた。  金にものを言わせて豪遊し、修学旅行では二十万もの大金を数日のうちに使い切った。度々夜の街に繰り出し、風俗店巡りを趣味としている。  かといって、素人の女性に手を出さないというわけではない。校内では、目をつけた女子生徒をひたすら口説いている。狙った女子生徒に付き合っている男子がいたら、その男子をトイレに呼び出しリンチをした。狙った女子生徒と付き合っているのが校内の男子ではない場合は、仲間数人で拉致(らち)し、やはりリンチ。  これは、単なる噂ではない。実際に、美咲も、怪我をした男子生徒を数人目撃している。  それでも五味が犯罪者とならないのは、事件を全て示談にしているからだろう。父親の会社には顧問弁護士がいるはずだ。その弁護士が手を回し、被害者が被害届を出さないようにしているのだ。  下衆で下劣。そのくせ承認要求が強く、自分を認めさせるためにも金を使う。  そんな五味が進学校に合格できたのは、父親の一言がきっかけだったらしい。 「いい学校に合格できたら、マンションを買ってやる」  父親に言われて五味は勉強に力を入れ、この高校に合格できた。彼の父親は、約束通り、マンションの一室を買い与えたという。現在彼は、高校生にして、マンションで一人暮しをしている。生活費は親が出しているのだろうが。  我が儘に育てられたが故に傲慢(ごうまん)で、欲しい物を手に入れられる経済力もある。恵まれた環境は、五味に、無駄としか言いようのない自信を与えた。  五味から(にじ)み出る自信は、周囲に人を集めさせた。  美咲は、咲子の言葉を思い出した。父親について話していたときの、彼女の言葉。 「若い頃は、性格に難があっても、自信に満ちてる男に惹かれるんだよね。生きる力が強そうなタイプ。本能なのか何なのか、わからないけど。その点、洋平君を好きになったあんたは、私なんかよりもずっと男を見る目があるよ。あんたは、同世代の女の子よりも、ずっと賢いと思う」  五味の周囲に集まる人達の中には、女の子も多い。それはきっと、咲子が言っていた若い女性を惹き付ける魅力があるからだろう。  美咲は、五味に、一年ほども前から口説かれ続けていた。彼が美咲の容貌に惹かれたということは、考えるまでもなかった。  当然、美咲は、五味の告白を断り続けた。洋平と付き合っているから、と。何度も何度も断り続けた。それでも、自信に満ちている五味に、諦める様子はなかった。美咲を振り向かせるために、自分自慢を振りかざしていた。  美咲は、以前、五味にしつこく口説かれていることを洋平に話したことがある。相談ではない。五味のしつこさに気持ち悪さすら感じていたが、悩むほどではなかった。洋平に話したのは、単なる愚痴だ。 「俺から文句言っておこうか?」  洋平は、露骨に面白くなさそうな顔をしていた。彼は、感情が表に出やすい。自分の恋人がしつこく口説かれているというのは、気分のいいものではないのだろう。いくら美咲にその気がないといっても。  洋平の様子を見て、美咲は、申し訳ないと思いながらも嬉しくなってしまった。ヤキモチを妬いてくれている。洋平は、本当に、私のことが好きなんだな。  私も、洋平が好き。本当に好き。照れ臭い言葉を心に閉じ込めて、美咲は、別のことを口にした。 「いいよ。もし喧嘩にでもなったら、洋平が困るんだし」  洋平は、中学一年からボクシングを始めている。美咲を守れる男になりたかった――というのが、ボクシングを始めた理由だ。傍目からも分かるほど努力を重ね、中学三年のときには全国二位にまでなった。さらに、高校一年にしてインターハイ出場。高校二年の今年は、インターハイや国体でベスト八まで勝ち進んだ。  そんな洋平だからこそ、喧嘩は御法度(ごはっと)だった。たとえ自分の身を守るためだとしても、ボクサーが喧嘩で拳を使うことを、司法は許してくれない。一発でも手を出せば、傷害の前科がつくだろう。正当防衛など認められずに。この国の司法は、加害者には優しくても、自分の身を守るために戦う者には冷たいのだ。  もしかしたら洋平は、五味に呼び出されたのかも知れない。美咲を口説き落とせないことに苛立った五味に、何かされたのかも知れない。  洋平から届いたメールを見て、美咲は、そんなことを考えた。  美咲を口説き落とせないのは、洋平のせいだ。彼がいなくなれば、美咲は簡単に落ちるはずだ。傲慢で自信に満ちた五味がそう考えるのは、ごく自然なことだと思えた。同時に、五味なら、自分の欲求のために洋平に危害を加えても、何ら不思議ではない。我が儘に育てられ、欲しい物を何でも手に入れてきた五味なら。  咲子にメールを転送した、スマートフォン。メール送信のメッセージが出た後、美咲はギュッと握った。心の中が、嫌な予感で満ちている。真っ黒な重油のように、心を重くしている。苦しいくらいに重く。  スマートフォンをブレザーのポケットにしまうと、美咲は、心臓付近を強く押さえた。嫌な予感で潰れそう胸を、支えるように。  何度も何度も、胸中で繰り返した。自分に言い聞かせた。  大丈夫。洋平は強いんだから。だから、大丈夫。五味なんかに何かされたとしても、絶対に大丈夫。 「洋平は強いんだから。だから、絶対に大丈夫」  今朝、洋子を励ますために口にした言葉。  今は、自分を励ますために繰り返していた。
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