第三十二話 手を血に染める準備をして、でもそれは怒りではなくて

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第三十二話 手を血に染める準備をして、でもそれは怒りではなくて

 一月二十七日の夜。午後八時。  自宅の自室で、美咲は、スマートフォンを手に取った。電話帳アプリで、一人の人物の情報を表示させた。  七瀬三春。  電話番号が表示された。  電話番号の横にある通話アイコンをタップして、電話を架けた。五回目のコールで、七瀬が応答した。 『えっと……もしもし?』 「もしもし。私。美咲。今、大丈夫?」 『あ……ああ。大丈夫だけど。何かあったのか?』  七瀬の声には、はっきりと怯えが混じっていた。美咲が一昨日の夜に送った、チャットのメッセージのせいだろう。 『まだ公表されてないけど、洋平の死体が見つかったみたい。私の家に、刑事が聞き込みに来た。あんたも気を付けて』  七瀬を精神的に追い詰めるための、嘘のメッセージ。その効果は、美咲の想像以上だった。 『もしかして、刑事が俺のことを聞きに来たのか? 俺のこと、何か言ってたのか?』 「大丈夫。落ち着いて。刑事がまたウチに来たけど、あんたのことは何も聞かれてないから」  優しく、それでいて力強い口調で話した。このような話し方やそれに似合う表情を練習するために、美咲は、十日ほども時間を費やした。練習の効果は確実に出ている。  七瀬は、美咲の思惑通りの反応を示した。 『なあ、笹森。どうしよう。村田を殺したことに関わったのがバレたら、俺、どうなるんだよ? やったのは五味君で、俺は手伝っただけなのに。それでも、俺も殺人犯になるのか?』  思惑通りの七瀬の反応。心底呆れ、溜め息をつきたくなるような反応。  ――こいつは馬鹿だ。  美咲は胸中で毒突いた。七瀬は、自分がやったことの重さをまるで理解していない。  吐き気すら覚える気持ちを抑え、美咲は、冷静に自分をコントロールした。 「落ち着いて。昨日、言ったよね? あんたは私が絶対に守ってあげる、って。大丈夫だから。あんたは、絶対に捕まらない」  この言葉は、半分は本当で半分は嘘だ。  当たり前だが、美咲には、七瀬を守るつもりなどない。しかし、彼が刑事に捕まることもない。  七瀬は今夜、死ぬのだから。 「いい? パニックにならないで。落ち着いて聞いて。私ならあんたを守れるから。心配しなくていいから。だから、今の状況を正確に理解して」 『今の状況?』  七瀬は、涙声で話していた。強者に守られていない状況では、何もできない。自分で切り抜けようとする意思も気力もない。  こんな男が、洋平の人生の幕を引いた一人だなんて。ただ虚しくて、ひたすら悲しい。  美咲は、静かに深呼吸をした。七瀬に落ち着けと言いながら、自分も落ち着かせた。 「いい? 今日、ウチに来た刑事に聞かれたのは、洋平と五味の関係性について。刑事は、五味を洋平殺害の犯人として断定しているのかも知れない。でも、五味はもう死んでる。だから、五味が犯人だっていう証拠を集めるために、五味の周囲の人間に聞き込みが行われると思う」  深呼吸をした効果か、美咲は、頭に浮かべた文言をスラスラと口にできた。 「もちろん、五味の周囲の人間にはあんたも含まれるから、そう遠くないうちに、あんたの家か学校に刑事が来るはず。五味の死体が見つかったときみたいに」  電話の向こうから、息を飲む音が聞こえた。 『なあ、どうすればいいんだよ? 刑事に何か聞かれたら、どう答えたらいい? 俺、嫌だよ。五味君に言われてやっただけなのに、捕まりたくねえよ』  美咲の胸が痛くなった。この痛みの正体は何なのか。自分でも分からない。五味に対して抱いていた怒りとは、違う気がする。  抱えている気持ちを、美咲は、五味に対するものとは違う種類の怒りだと判断した。嬉々として洋平を殺した五味。保身しか考えていない七瀬。彼等の心持ちが違うから、怒りの種類も違うんだ。  自分を納得させるように、美咲は胸中で呟いた。  そうだ。七瀬には、洋平の命を奪ったことに対して何の反省も後悔もない。あるのは保身だけだ。五味だけを洋平殺害の犯人として捉え、自分には何の責任もないとという発言をしている。そんな彼に対する怒りだ。 「言ったよね? 私があんたを守ってあげるって。だから心配しないで。私の言うことをよく聞いて、私の言う通りにしていれば、絶対に大丈夫だから」 『本当に、絶対に大丈夫か?』 「本当に、絶対に大丈夫」    力強く、美咲は告げた。自信に満ちた声と口調。何度も練習した話し方。 『じゃあ、俺は、どうすればいいんだ?』 「洋平が死んだ日は、ちょうど、私も外出していたの。一人でね。その日は、私もアリバイがないことになる。だから、あの日は、私と一緒にいたことにしなさい。ただし、私の行動を完璧に記憶して、口裏を合わせる必要がある。メモに書き出して渡すから、今から出てきなさい」 『……わかった』  七瀬は、美咲の指示に一切反論しなかった。 「私は今から、あの日に出かけた場所と行動をメモに書き出すから。結構細かく書くけど、メモを見なくても暗唱できるレベルで覚えて。遅くとも明日中に」 『……ああ。で、俺は、どこに行けばいいんだ? お前の家か?』 「私の家に直接来たら、口裏合わせがバレるかも知れないでしょ? だから駄目。五味の家の会社がやってる、会社のビルの建設予定地に来て。あそこなら、現場の中に入れば、誰にも見つからずに話しができるから。場所は――」  美咲が指定したのは、六田を埋めた建設予定地だった。六田と一緒に、七瀬の死体も埋めるつもりだ。 「私は、今から急いでメモを書き出すから。急いで書くから字が汚くなるけど、文句は言わないでね。落ち合う時間は、そうね……九時半頃に着くようにして」 『わかった。頼む』 「任せて。じゃあ、後で」  美咲は電話を切った。  七瀬に渡すメモは、彼に電話をする前に書き上げていた。今すぐ家を出て、八時半頃に待ち合わせることも可能だった。時間に余裕を持たせたのは、最終確認をしたかったからだ。  七瀬を信頼させるための、表情の練習。五味の家から持ってきたスタンガンの、動作確認。絞殺に使用するロープが切れていないかどうかの確認。  咲子はすでに帰宅していて、一階のリビングにいる。鏡の前で表情をつくり、咲子に聞こえないように声や口調の練習をした。問題ない、と思えた。焦り、怯え切っている七瀬を騙すには、十分な演技だ。  スタンガンの動作もチェックする。スイッチを入れると、バチバチッと音を立てて青白い光が走った。  このスタンガンは、洋平を殺したときに使ったものだろう。彼ほどのアスリートを行動不能にしたのだ。七瀬の動きを封じるくらいは、容易(たやす)いだろう。  それでも、一抹の不安はあった。だから美咲は、七瀬殺害の計画中に、三回ほどスタンガンの威力を試した。    自分の体で。  スタンガンを当てた瞬間、全身に引き痙るような痛みが走った。筋肉が、思うように動かせなくなった。体が自由を取り戻すまで、十分以上はかかった。さらに、筋肉の引き痙りが完全に消えるまで、丸一日ほどもかかった。  ロープが切れていないかも、細かくチェックした。ビニール製のロープは、締め上げる際に手が滑るので避けた。麻縄のロープ。表面がザラザラしているので、思い切り締め上げても手は滑らないだろう。ただ、手が擦れて傷になりそうなので、軍手も持って行く。  七瀬に渡すメモも、鞄の中に入れた。このメモに書いている美咲の行動は、全て嘘だ。あの日は、ずっと家にいた。洋平が暴行され、殺されているとも知らずに。何も知らず、吞気に過ごしていた。  ――洋平は、私を守ることだけを考えていたのに!  胸が痛む。もうどこにもいない洋平。思い浮かべることしかできない洋平。優しくて、努力家で、何よりも美咲を大切にしてくれた洋平。  洋平のことを考えると、胸の痛みが強くなった。苦しくなった。  この痛みや苦しみは、洋平を失ったことに対する悲しみと、彼を殺したクズ共に対する怒りだ。  だから殺す。仇を討つ。  五味に買わせた黒のコートを着て、美咲は鞄を持った。一階に降りる。咲子には「コンビニに行ってくる」と告げて、家を出た。  ――胸の痛みの原因は、もはや怒りではない。かつて怒りを含んでいたもの、だ。  けれど美咲は、自分自身の気持ちに、まだ気付けない。
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