第三十三話 動機と、突き動かすもの

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第三十三話 動機と、突き動かすもの

 美咲は幸運だ。  洋平は、そう思わずにはいられなかった。  美咲が七瀬殺害のために動き出したのは、一月二十五日の夜。その日は、七瀬にチャットのメッセージを送っただけで、特に外出はしていない。七瀬を誘い出し、殺害のために外出したのは今日――一月二十七日だ。  前原とさくらが美咲の動きを追っていたのは、捜査会議で方針が決まる前日――一月二十五日の夜まで。一月二十六日から、彼等は、捜査方針に従って動き出した。つまり、美咲の動きを追うのをやめた。  もし、捜査会議が行なわれるのが、あと二日遅かったら。  美咲を張り込んでいた前原とさくらは、美咲が七瀬を殺害しようとする現場を目撃しただろう。その時点で、美咲は、現行犯逮捕されていたはずだ。  だが、捜査会議は、美咲が動き出す前に行なわれた。  もしかしたら、この世には、本当に神様がいるのかも知れない。神様が、あまりに辛い境遇にいる美咲のために、奇跡を起こしてくれたのかも知れない。洋平は、そんな錯覚を抱いた。そんな錯覚を抱いてしまうほど、物事が神がかったタイミングで進んでいた。  美咲の動きを追っていた洋平は、彼女がどこで七瀬を殺すつもりなのか、知っている。六田の死体を埋めた建設現場。  当然のように、洋平も、その建設現場に移動した。  建設中の建物は、立体的に組み立てられた鉄骨に囲まれている。組み立てられた鉄骨が、建物の骨組みになるのだろう。鉄骨には幕が張られていて、外から中は見えない。天井には幕が張られておらず、昼間には、太陽の光が入るようになっている。  建設現場の周囲は、高さ二メートルほどの幕で囲まれている。上空から見ると、現場の幕と建物が、ちょうど「回」という文字のような状態となっていた。  建物や、建物を囲む幕にも、当たり前のように出入り口がある。しかし、あまり広くない。昼間の作業中に、作業現場に他人が入らないようにするためだろうか。どういう意図で入口が狭いのかは、建設に関して素人の洋平には分からない。  道路沿いにある現場の入口部分には、灰皿が放置されていた。鉄製の、四角く赤い灰皿。立ったまま煙草が吸えるように、四本の足が付いている。現場作業員が使用するものだろう。  刑事達は、美咲以外の人物を容疑者候補として捜査を行なっている。彼等が美咲の犯行現場に現れる可能性は、限りなく低い。  限りなく低いが、まったく可能性がないわけではない。  だからこそ洋平は、ここに来た。美咲が、七瀬殺害に選んだ現場。  仮に、美咲の犯行現場に刑事が来たとしても、洋平に何かできるわけではない。それでも洋平は、美咲の周囲の警戒をやめられなかった。  美咲が殺害場所に選んだ現場。この場に最初に来たのは、七瀬だった。彼は、不自然なほど周囲を警戒しながら、現場を囲む幕の中に入っていった。建設中の建物の入口付近に立ち、美咲を待っている。  七瀬は、明らかに平常心を保てていなかった。真冬の夜で気温はマイナス十度近くまで下がっているというのに、額には汗が浮き出ていた。殺人に手を貸したことに、罪悪感を覚える気配すらない。ただひたすら、自分の身が可愛い。それ故の焦り。  七瀬のしばらく後に、美咲が到着した。彼とは対照的に、落ち着いた様子を見せていた。もっとも、彼女の表情は、どんなときでもほとんど変化がない。  しかし、洋平には分かる。美咲も、少なからず緊張している。  美咲は、何度か唇を舐めていた。緊張で、喉や唇が乾いているのだ。  美咲を追って、洋平も建設現場に入った。  建物の入口付近で、美咲と七瀬は、互いの存在に気付いた。 「早かったね」 「急いで来たんだ。それより、メモは? 俺は、どんなことを覚えればいいんだ?」  焦りを隠そうともせず、七瀬は美咲に詰め寄った。自分が犯罪者になるかどうかの瀬戸際なのだから、当然かも知れない。 「焦らないで。言ったでしょ? 落ち着いて、って。どんなにちゃんとした計画を立てても、焦ってボロを出したら台無しなんだから」  それはまるで、美咲が、自分自身に言い聞かせているようなセリフだった。 「とりあえず、建物の中に入ろう。こんなところで話してたら、外に会話が聞こえるかも知れないし」 「ああ。分かった」  二人は、暗い建物の中に足を進めた。  洋平も彼等に続いた。  建物は、美咲が六田を殺害したときよりも施工が進んでいた。砂利が敷き詰められていた土台部分は、部屋のような区分けがされている。一メートルほどの高さの、コンクリート壁での区分け。コンクリート壁がない部分には、細い鉄製の支柱が数本立てられていた。  あの支柱を基礎として、本格的に壁が作られてゆくのだろう。  六田殺害時は、土台の部分に砂利が敷き詰められていた。今は、砂利の上に灰色の砂のような物が重ねられている。砂利はもう見えない。あの灰色の砂は、固められる前のコンクリートだろうか。  土台の深さは、六田殺害時は一・五メートルほどだった。施工が進んだ現在は、深さが三十センチほどになっている。  現在、建物に天井はない。夜空が見える。昼間とは違い、太陽の光は入ってこない。周囲を照らすのは、星と月の明りのみ。そのため、かなり暗い。   「あっちに行こうか」  美咲は、建物の土台の中央部付近を指差した。 「あそこまで行けば、外に会話が聞こえることもないだろうし」 「そうだな」  七瀬は、何の疑いも持たずに美咲に従っている。自分が助かるために、ひたすら彼女に縋っている。これから彼女に殺されるなんて、夢にも思っていないのだろう。  もうこの時点で、美咲の七瀬殺害は、七、八割方成功していると言えた。  美咲と七瀬は、コンクリート壁で区分けされている土台部分に降りた。土台の灰色の砂は、二人の足跡をしっかりと残していた。  土台の中央部分まで来ると、美咲は、自分の足元の砂をつま先で軽く掘った。七瀬の死体を埋めることが可能か、確かめているのだ。  美咲は、埋められると判断したようだ。七瀬殺害を実行するため、鞄の中を探る。彼に見せるための、偽のアリバイを記したメモ。殺害に使うスタンガンとロープ。軍手。手探りで、必要な道具があることを確認していた。  七瀬には、美咲が今何をしているか、ほとんど分かっていないようだ。この暗がりで、さらに黒いコートを着た美咲の動きは、目測では察知しにくい。  この建物は密室ではないものの、天井と入口以外は完全な密閉空間だ。外からは一切見えない。美咲の殺人が目撃される可能性は、限りなく低い。それでも洋平は、一度、外に出た。周囲に誰かいないか。建物に入って来る人がいないか。警戒し、確認するために。
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