第三十三話 動機と、突き動かすもの

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 建物の外では、緩い風が吹いていた。肌を撫でる程度の風。だが、マイナス十度という寒さの中では、こんな風ですら凶器と思えるほど冷たく感じるだろう。  もちろん、洋平が寒さを感じることはないが。  建設現場近くの歩道を、一組の男女が通りがかった。 「冷えるな、今日は」 「そりゃあ、冬ですから」  その男女の、何気ないとも言える会話。  通りがかったのがただの一般人なら、洋平は、さほど気に留めなかった。美咲と七瀬の会話がここまで届くとは思えないし、ただの一般人が、建設現場の中をわざわざ覗きに来るとも思えない。  それが、ただの一般人であれば。  ザワリとした嫌な感覚が、洋平の心に沸き上がってきた。体があったなら、寒気が、胸元から全身に突き抜けていただろう。 「こんな偶然があるのかよ!?」  つい、吐き捨ててしまった。  建設現場の前を歩いていたのは、前原とさくらだった。どうやら彼等は、こんな時間まで仕事をしていたようだ。洋平の行方を探るための捜査。 「俺の死体は、こんなところにはない! 違う建設現場だ! そっちに行けよ!」  彼等に向かって怒鳴ってみたが、声が届くはずがない。 「疲れた。煙草吸いたい」  愚痴のように、前原が言った。そういえば彼は、聞き込みを行なった学校でも煙草を吸いたがっていた。 「携帯灰皿とか、持ってないんですか?」 「残念だけど、持ってない。刑事が路上で煙草を吸って、それを他の警官に注意されたら、笑えないし」 「この建設現場とかに、灰皿とか置いてないんですかね? なんか、現場作業員の人って、みんな煙草吸ってるイメージがあるんですけど」 「そりゃ偏見だろ」 「でも、あるみたいですよ。ほら」  建設地を取り囲む幕。その入口部分を、さくらは指差した。彼女の人差し指の先には、赤い鉄製の灰皿がある。 「ありがとう、原。ありがとうついでに、一服させてくれ」 「ええ、どうぞ。どうせ、駄目って言っても聞いてくれないでしょうし」 「そんなことはない。そんなことはないが、ありがとう」  前原は灰皿に駆け寄り、コートの内ポケットから煙草を取り出した。煙草の箱にはPeaceと表記されている。箱から一本取り出し、火を点けた。  洋平の心を、強烈な焦りが駆け抜けた。美咲と七瀬の会話は、ここまでは聞こえないだろう。ただしそれは、通常の会話であれば、だ。もし、殺されそうになった七瀬が叫び声でも上げれば、さすがにここまで声が届く。  もし、そうなったら。  美咲と七瀬は、今、どうなっているのか。彼女達の状況も気になるが、同時に、洋平は、前原とさくらからも目を離せなかった。彼等が、建物内の様子に気付くことはないか。何か異変を感じたりしないか。  前原は煙草に口をつけ、大きく吸い込み、大きく吐いた。空気すら凍りそうな寒さの中に、白い煙が広がった。 「前原さん」  旨そうに煙草を吸う前原に、さくらが聞いた。 「以前(まえ)から疑問だったんで、ちょっと聞いてもいいですか?」 「何だ?」 「前原さんって、どっからどう見ても体育会系ですよね?」 「ああ。これでも、中学高校大学と、柔道部だったしな」 「なんか、煙草を吸うイメージじゃないんですけど」  言われて、前原は苦笑した。 「法律に違反したことは一度もないぞ。煙草を吸い始めたのも二十歳だったしな」 「なんで煙草なんて吸い始めたんですか? お金はかかるし、体に悪いし、いいことなんてないと思いますけど」 「んー……まあ、憧れかな」  二人の会話を聞きながら、洋平は次第に苛立ってきた。無駄な会話をしていないで、早くここから立ち去って欲しい。 「憧れ?」  洋平の心情に気付くはずもなく、さくらは前原の言葉を復唱した。 「ああ。俺の親父も刑事でな。昔から格好いいと思っていたんだ。だから刑事になりたかったんだ。柔道部に入ったのも、将来刑事になることを見据えてだったしな」 「じゃあ、もしかして、煙草もお父さんの真似をして?」 「そう。ちなみに、銘柄も同じ」  前原の表情が、少し複雑に動いた。どこか懐かしそうで、少し楽しそうで、それでいて悲しそうに。煙草を吸い、煙を吐きながら話を続けた。 「親父が優秀だったかどうかは、俺は知らない。でも、いい刑事だったと思う。俺は親父が仕事をしているところなんて見たことがないし、他の警察関係者から親父の話を聞いたこともほとんどないけど」 「優秀かどうかも分からないのに、いい刑事だったとは?」  大切な思い出を語るように、前原の話は続いた。  前原の父親は刑事であり、殺人犯を逮捕したこともあるそうだ。つまり、その犯人にとっては、本来であれば憎むべき存在だ。  けれど、前原の父に逮捕された犯人達は、彼を憎んでなどいなかった。刑期を終えて出所した後に、前原の父に挨拶に来る人物が多数いたという。元犯罪者と前原の父の交流は、長く続いたそうだ。前原の父が亡くなるまで。  元犯罪者達は、前原の父の葬儀にまで足を運んだという。 「親父が()()()()にどんなことをして、どんな付き合い方をしていたのか、俺は知らない。けど、元犯罪者が刑事の葬式まで来るって、よっぽどだろ?」 「なるほど。そういうことですか」 「……? 何がだ?」  柔らかな笑みを浮かべたさくらに、前原は首を傾げた。彼女は何も答えない。  洋平には、さくらが何に納得したのか、分かった気がした。きっと彼女は、前原が事件関係者に感情移入しやすい理由に気付いたのだろう。  前原の父は、捕まえた犯人とすら交流を続ける人物だった。優秀かどうかは別にして、周囲に人が集まる人物だったのだろう。人の心に寄り添い、同調し、思いやれる。だから、色んな人に慕われる。自分が逮捕した犯人にすら。  ――もしも……  一瞬だけ、洋平は考えてしまった。万が一、美咲が殺人犯として逮捕されたとしても。それでも、前原が寄り添ってくれたなら。  美咲の心が、救われるかも知れない。  一瞬だけ考え、すぐにその考えを振り払った。  美咲が殺人犯として捕まっても、前原は、可能な限り美咲に寄り添ってくれるだろう。しかし、だからといって、殺人犯という烙印が消えるわけではない。  たとえどれほど寄り添ってくれる人がいたとしても、殺人犯になどなるべきではない。美咲には、絶対に捕まって欲しくない。  ――バチバチッ  前原とさくらがいる付近に、唐突に、奇妙な音が届いた。小さな、何かが弾けるような音。 「?」  煙草を口にしたまま、前原はキョロキョロと周囲を見回した。 「なんか今、変な音がしなかったか?」 「ええ。焚き火の火花みたいな音がしましたね」  違う。焚き火なんかじゃない。こんな季節に焚火をする人などいない。  洋平には覚えのある音だった。かつて、自分も経験した衝撃。あれは、スタンガンの音だ。  美咲が、七瀬にスタンガンを使ったのだ。  まずい。前原やさくらは、あの音がしたところに行ったりしないだろうか。  先ほどの七瀬よりも大量の冷や汗が、額に流れる。洋平は、そんな感覚に包まれた。もちろん、汗など出ないのだが。  ――バチバチッ 「あ。また聞こえましたね」 「ああ」 「どこから聞こえてきたか、分かります?」 「いや。分からん。何の音かも分からん」  しばし、二人は無言になった。  やがて、建設現場の家鳴りのような音だろう、という結論に落ち着いた。建物内に入って確かめようとする様子はない。  洋平の心が、一気に脱力した。あまりの安堵で。  いつの間にか前原は、二本目の煙草に火を点けていた。吸って吐いてを旨そうに繰り返す。  二本目の煙草も短くなり、あと一回吸ったら終わりという程度の長さになった。前原は煙草に口を付け、大きく吸い込んだ。 「ブッ……ゲホッ! ゲホッ!」  前原が、大きく咳き込んだ。静かな夜の空に、咳の音が響いた。  さくらは、呆れたような目を前原に向けた。 「何やってるんですか」 「いや、見ての通り、むせた」  この二人が、美咲達の存在や行動に気付くことはないだろう。  そう思いつつも、洋平は、二人が立ち去るまで彼等の様子を観察していた。
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