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七瀬は、わずかに動く首で美咲の方を見た。何かを言いたそうに、かすかに口を動かした。しかし、言葉にならない。呻き声が喉から漏れるのみだった。
美咲は冷たく七瀬を見下ろした。鞄から出した軍手を履き、彼の首にロープを巻いた。
七瀬の顔が、目に見えて青ざめてゆく。この暗がりでも分かるほどに。
首を締めているときに動かれたら、面倒だ。美咲はもう一度、七瀬にスタンガンを当てた。スイッチを押す。
バチバチッ
電流音とともに、七瀬の体がビクンビクンッと跳ねた。口から涎が流れ、目には涙が浮かんでいる。
「どう? 自分がやられる感想は」
五味を殺したときのように、辛辣な口調で言ってみた。けれど、あのときほど気分は晴れなかった。
自分の気持ちに違和感を覚えつつ、美咲は、うつ伏せに倒れた七瀬に跨がった。彼の首に巻いたロープを握る。そのまま、思い切り引っ張った。
七瀬の反撃も抵抗もなかった。彼は今、動けない状態になっている。このまま締め続ければ、酸欠になり、一分程度で意識を失うだろう。
両手に目一杯力を込めて、美咲はロープを引いた。手加減などせず、全力で。頭の中で数をカウントしながら。
美咲の胸中でのカウントが四十に差し掛かった頃、七瀬は白目を剥いた。口から、泡を吐き出した。意識がなくなったのだろう。
六十を過ぎたあたりで、白目を剥いていた目が、眼球が飛び出しそうなほど突き出てきた。
七十五に達すると、鼻と口から血が流れてきた。
八十五を越えたあたりで、異臭が美咲の鼻を突いた。七瀬が失禁したのだ。
カウントが一〇〇を越える頃になると、七瀬の顔色は、生きてる人間とは思えないものとなった。天井から差し込むわずかな光に照らされた、彼の顔。まるで土のような色だった。
美咲は、なかなかロープから手を離せなかった。人は、どれくらい締め続ければ死ぬのか――詳しく知らなかった。いつ手を離せばいいのか分からない。
――いつまでこうしていればいい? いつまで締め続ければいい? いっそ、力が入らなくなるまで締め続けようか。
疲労で震え始めた両手。それでも力を抜かず、美咲は考えを巡らせていた。いつ、七瀬は死ぬのか。まだ生きているのか。もう死んでいるのか。
胸中でのカウントが、三〇〇を越えた。
――ゲホッ、ゲホッ!
唐突に、遠くから咳が聞こえた。
驚いて、美咲はビクッと体を震わせた。七瀬を締めていたロープから、力を抜いてしまった。
心臓が、バクバクと早鐘を打った。慌てて周囲を見回した。
建物内には、誰もいない。
咳は、割と遠くから聞こえた気がした。とはいえ、ここは外から遮断された空間だ。建物のすぐ近くにいる人の咳でも、遠くに聞こえるかも知れない。
――どうしよう?
美咲は自問した。もし、咳をしたのが建設現場の作業員だとしたら。もし、この建物の中に入って来たら。
言い逃れなどできない。明らかな殺人の現場だ。
将来的に逮捕されるのは覚悟している。だが、標的を残しているうちは捕まれない。
美咲は、七瀬の首に巻いていたロープを回収した。うつ伏せに倒れている七瀬。彼の、背中のやや左側に右耳を当てた。心音の確認。鼓動は、まったく聞こえてこない。十秒ほど耳を当て続けたが、彼の心臓は、動く気配をまったく見せなかった。
――大丈夫だ。こいつはもう、間違いなく死んでる。
確信すると、美咲は、七瀬に渡したメモを回収した。現場に残った自分の足跡を踏み捻って消し、建物の土台部分から出た。
建物の出入り口付近まで足を運ぶと、鉄骨に張られた幕に耳を当ててみた。外から、足音や人の声は聞こえてこない。
入口付近には、今は誰もいないようだ。だが、確かに咳は聞こえてきた。ここに誰かが入って来る可能性は、決して低くない。
七瀬の死体をこのまま放置してでも、今は逃げるべきだ。そう判断した。
美咲は、建物の入口から少しだけ顔を出し、周囲を見回した。人影は見当たらない。どんなに少なくとも、視界の範囲には誰もいない。
遠くから話し声が聞こえた。話の内容までは分からないが、明らかに、人と人が会話をしていた。声の質から、男女の会話だと分かった。この現場の出入り口付近から聞こえる気がする。
美咲は素早く建物から出た。現場の出入り口からは出られない。人がいる。幸い、現場を囲む幕は、ただのビニール製だ。地面を這うように、ここから抜け出せるはずだ。
出入り口とは真逆の方向に向かい、美咲は、地面に伏せた。そのまま、匍匐前進の要領で地面を這い、幕を通り抜けて現場から出た。コートが泥だらけになったが、構わない。五味に買わせたコートなど、どうでもいい。
建物の中に置き去りにした、七瀬の死体。間違いなく、明日には発見されるだろう。けれど、すぐに犯人が判明するはずがない。
まだ時間はある。八戸を殺す程度の時間は。
――美咲の予想通り、七瀬の死体は、翌日の朝に発見された。
死体の第一発見者は、現場の作業員だった。
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