第三十六話 暗闇の中の終幕

1/2
前へ
/58ページ
次へ

第三十六話 暗闇の中の終幕

 八戸四郎は気が弱く、臆病で、強い者の言いなりになる男だ。だから、五味達の命令で野球を簡単に辞めた。彼等の使い走りになった。  強者に逆らうことなく、流されるように生きている。強い者の顔色を伺い、いつもビクビクと怯えていて、命令に反抗することもない。  洋平を殺した時もそうだ。殺人という大きな罪を犯すときでさえ、八戸は、五味達に一切逆らわなかった。反抗することも拒否することもなかった。  弱い、弱い生き物。  美咲は、以前、八戸を誘い出して殺すのは意外に難しいかも知れない、と考えていた。五味や六田、七瀬を殺した今となっては、真逆の考えになっていた。  一月末日。午後七時。  七瀬殺害から、四日が経っていた。  美咲は今、自宅の自室にいる。咲子はまだ、仕事から帰って来ていない。  美咲の頭の中にあるのは、最後の標的をいかにして殺すか。七瀬殺害の聞き込みが行なわれた昨日から、ずっと考え続けていた。  八戸を殺すのは、そう難しくない。洋平の仇は彼で最後なのだから、誰にも見つからないように気を付ける必要もない。洋平の仇が討てれば、後はどうなってもいい。  いっそ、校内で、堂々とナイフで刺し殺してやろうか。すぐに通報されて逮捕されるだろうが、別に構わない。  ――ううん。駄目。  もし八戸を殺し切れなければ、洋平の仇を全員殺さずに捕まることになる。やはり、確実に殺しにいくべきだ。  七瀬のときと同じように、ひと気のない場所に呼び出して殺した方がいいだろう。  もう、残された時間は少ない。昨日は上手く刑事達を誤魔化せたが、すぐに追い詰められるはずだ。できるだけ早く行動し、できるだけ早く殺す必要がある。  締めたカーテンの隙間から、外が見える。チラチラと、雪が降っている。  カーテンから、光が透けて見えた。ゆっくりと動く光。ライトを点けた車が、家の前を通ったのだろう。光は窓の端辺りまで移動すると、動きを止めた。  美咲は決断した。  これから八戸を呼び出して、殺そう。場所はどこにしようか。七瀬を殺した建設現場は、彼の殺害現場として警察が調べている。今回は使えない。  以前、生前の五味が自慢気に語っていた。親の会社が請け負っている、建設現場のことを。彼が話していた建設現場の中には、洋平が埋められた建設地も含まれていた。  洋平が眠る場所。  美咲の頭の中に、天啓(てんけい)のように光りが差し込んだ。  そうだ。八戸は、洋平と同じ場所で殺そう。洋平が眠る場所で仇討ちを完了させ、全てを終わらせよう。  洋平を失った今、美咲にとっては、何もかもどうでもよかった。  何もかも。  自分の命すらも、どうでもいい。  どうでもいいから。洋平の仇を討ったら、自分の命も終わらせよう。洋平と同じ場所で眠りにつこう。  洋平と同じ場所で。  添い寝するように、永遠の眠りにつこう。  表情には出さず、美咲は苦笑した。  人間は――全ての意思を持つ生き物は、死んだら完全な無になる。洋平は生前、そんなことを言っていた。だからこそ、生きている間は大切なもののために必死になりたい。生きている時間を大切にして、大事なもののために自分の意思を使いたい。  洋平の言う「大切なもの」が何なのかは、聞くまでもなかった。彼の行動が、意思の全てを物語っていた。  美咲も、洋平と同じ気持ちだった。死んだら、完全な無になってしまう。だから、自分にとって大切なもののために意思を注たい。  注いで。注ぎ切って。自分の命を終わらせて。完全な無となる。  けれど、もしも。  もしも、死後の世界なんてものがあるのなら。  美咲は胸元に手を当て、ギュッと拳を握った。心に溢れる気持ち。悲しい。寂しい。苦しい。愛おしい。色んな感情が混在して、心臓が締め付けられるようだった。  でも、洋平の仇討ちをしたのは、自分の選択。だから、最後までやり通す。  大きく息を吐いて、美咲はスマートフォンを手に取った。八戸に電話を架ける。  彼が応答するまで、少し時間がかかった。十コールほどだろうか。  七瀬にしたものと同じ説明を、八戸にもした。刑事が、洋平殺しの件で聞き込みに来た。守ってあげるから洋平を埋めた場所まで来て、と。  気が弱く流されやすい八戸は、あっさりと美咲の言葉を受け入れた。どこか上の空のような印象を受けるほど、質問も反論も返してこなかった。  電話を切った。  美咲は、鞄にナイフとスタンガンを入れた。七瀬のときとは違い、返り血を浴びないようにする必要もない。八戸を殺したら、すぐに自分も死ぬのだから。  不思議なほど、心が穏やかだった。もう死ぬと決めたからだろうか。洋平を失った悲しみは消えない。寂しさも消えない。胸の痛みがなくなるはずもない。ズキズキと痛み続けている。それなのに、穏やかだった。  もう、全てが終わる。  五味を殺したとき、彼の子供を妊娠していればいいと思った。妊娠していたら、産んで、惨殺してやろうと思っていた。  あれから生理はきていない。本当に妊娠したのだろうか。それとも、悲しさや寂しさのストレスから、生理不順になっているだけだろうか。  仮に妊娠していたとしても、自分が死ねば腹の中の子供も死ぬ。最後の最後に、五味の存在を全て比定して死ねる。  仮に妊娠していなくても、自分が死ねば全てが終わる。今抱えているこの苦しさも、全て。 「じゃあ、行こうか」  誰に告げるでもなく、美咲は呟いた。自分自身に言ったのか、自分以外の誰かに告げたのか。美咲自身にも、分からなかった。  ピンポーン  美咲がコートを着たところで、家のインターホンが鳴った。  終幕への邪魔をされた気分になって、美咲は若干苛立った。  居留守でも使おうかと思ったが、やめた。対応して、さっさと追い返そう。「これから急ぎで出かけるから」とでも言って。そのまま、マンションの建設地に向かおう。洋平が眠る場所へ。  殺害の道具が入った鞄を持って、美咲は一階に降りた。玄関で、ドア越しに聞いた。 「どちら様ですか?」 「警察の者です」  玄関の向こうから、知っている声が聞こえた。  学校での聞き込み捜査では、ほとんどの質疑応答をさくらが行なっていた。だから、あまり馴染みのある声ではない。けれど、はっきりと覚えている声。  少しだけ洋平に似ていると思った人の声。  美咲は玄関のドアを開けた。  外には、七人の人物がいた。そのうち、顔見知りは二人。前原正義と、原さくら。彼等の他に五人。二人以外も、全員刑事だろう。人数と雰囲気から、事情を聞きに来ただけではないのは明らかだった。  ――ああ。間に合わなかったか。  美咲の胸中に浮かんだのは、そんな言葉だった。全員、殺せなかった。仇を全て討てなかった。  復讐劇の結末を悟ったとき、美咲は、自分でも驚くほど落胆しなかった。目的を果たせなかったのに。  胸は、相変わらず痛い。ずっと痛み続けている。その痛みに、変化はなかった。全員殺せなくても。仇を全て討てなくても。目的を果たせなくても。 「あ……」  小さく、声が漏れた。  七人の刑事を前にして、美咲は気付いた。そうか、と。そうだったんだ、と。  五味を殺したとき、洋平の仇を討てたという高揚感に包まれた。五味の死体に対して「バラバラになろうか」なんて話しかけてしまうほどの、異常な高揚感。  それに対して、六田を殺したときは淡々としていた。何も言わずに滅多刺しにし、何の感情も抱かずに死体を解体した。  七瀬を殺す直前。意地悪く、スタンガンを当てられる気持ちを聞いてみた。五味に辛辣な言葉を吐き捨てたときほど、興奮しなかった。  今になって、美咲は、その理由を知った。  自分にとっての「復讐」は、五味を殺したことで完結していたのだ。首謀者であり、洋平の死の根源。彼を殺した時点で、復讐は終わっていたのだ。  あとは、ただの八つ当たり。復讐の名を借りた八つ当たり。  洋平を失ったことが、あまりに悲しくて。どうしようもなく寂しくて。胸の奥が、痛くて、痛くて。  あいつ等を殺すことでしか、誤魔化せなかった。洋平の死に関与した奴等を、殺すことでしか。
/58ページ

最初のコメントを投稿しよう!

22人が本棚に入れています
本棚に追加