第一章 あやし者の介護をすることになりそうです

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第一章 あやし者の介護をすることになりそうです

江原(えはら)心愛(みちか)さん、確認して下さい。江原茉莉さんご本人でよろしいですか?」  警察官に訊かれても、心愛(ミチカ)はすぐに返答できなかった。  安置された遺体は間違いなく姉の江原茉莉である。呼吸の止まった青白い顔は間違いなく、写真で見た姉の顔である。  しかし、姉だと断言できる自信はなかった。 「ミチカちゃん」  付き添いに来てくれた叔父が、気を遣うように静かに声をかけてくれたが、ミチカは首肯も否定もできなかった。そんなことより、初めて見る姉の顔が、ミチカには衝撃でしかなかった。  ミチカの知る姉は、全身に黒い(もや)をまとわせ、ほぼ常に「ミチカちゃん、酷い!」とわめき散らしていた人だった。  ミチカと姉は、ミチカが小学生の頃に両親を亡くし、子どものいない叔父と叔母に引き取られた。姉は高校卒業と同時に一人暮らしを始めたが、頻繁にミチカを呼び出して脅迫まがいにイベントごとを強要するようになった。  姉は先月の誕生日を前に、ホールケーキとローストビーフと新発売のタブレットをミチカに要求し、断ったら「SNSに叔父さん達の個人情報を載せて拡散してあげる」と脅してきた。  ミチカが姉のアパートでホールケーキとローストビーフとタブレットを渡すと、即座にケーキを箱ごと潰し、ローストビーフをテーブルから叩き落とし、タブレットをマンションの窓から放り投げたのだ。  ――ミチカちゃん、酷い! 30歳になることが嫌だって何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も申し上げ続けていたのに、こんな嫌がらせをするなんて! お姉ちゃんはミチカちゃんにずたずたに傷つけられて、死にたくて死にたくて死にたくて死にたくて死にたくて死にたくて死にたくて死にたくて死にたくて死にたくて仕方ないのに!  姉の強い希望で、超人気店のケーキとローストビーフを特注し、仕事でタブレットを使いたいけどお金がないと言っていた姉のためにアルバイト代で新発売のタブレットを予約して購入した結果、この反応だった。  そんな姉の相貌は、とても30歳とは思えないほど可愛らしく、似ている姉妹だと言われるとミチカも納得してしまうほどだった。  姉の性格と外見の落差は、異様だった。  ミチカは立っていることができず、床に膝をついてしまった。女性の警察官に付き添われて廊下に出され、ミチカの代わりに叔父が遺体の確認をしてくれた。 「あの子、やっぱり、つらいんだろう」 「お姉さん、自殺だって?」 「可哀想に。妹さん、そろそろ大学を卒業するんだろう」  警察官も、やはり人間だ。人の心があり、噂話をする。  ミチカは警察官の会話を聞かないふりをして天井を仰いだ。  蛍光灯が明滅する薄暗い天井に、黒いもやが漂っている。亡くなった人の思いや、職務に耐えられずに辞めた人の言い訳。そういった「思い」は、どこにでもあふれていて、ときに一か所に集まって不可解な現象を生じさせる。  ミチカは物心ついたときから「思い」を感じ、もやとして見えることが多かった。それが霊感の一種だと知ったのは、もっと後のこと。誰にも話したことはない。  ミチカの姉は、悪い「思い」を引き寄せてしまう体質だった。本人に自覚はなく、打つ手もなく、心を病んでしまった。  姉の死は、悪い「思い」に引き寄せられたせいだ、とミチカは考えた。自宅のある東京ではなく、縁もゆかりもない群馬県に出向いて自殺するなど、余程のことでない限り理屈で説明できない。  常に黒いもやを身にまとい、わめき散らす姉。自殺だなんて自業自得だ、と評する人もいるかもしれない。  悪い「思い」のせいだと気づいていながら姉を救うことができず、姉の気に入るように振る舞うことができなかった自分が悪いのだ。その思いが、姉との別居を躊躇(ためら)わせた。  涙は出なかった。ぽっかり穴が空いたようだった。自分は非情な人間だ、とミチカは思った。
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