第一章 あやし者の介護をすることになりそうです

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 リクルートスーツのジャケットのボタンが緩んでいることに気づいたのは、採用面接を終えてビルを出たときだった。  何回面接に挑んだだろうか。もう考えたくない。そのたびに、面接会場に溜まる「思い」を感じ、ここら無理だと思ってしまった。  駅のホームで電光掲示板を確認し、ベンチに腰を下ろす。バッグからスマートフォンを取り出し、ケースのポケットに挟んだ一筆箋を見る。  『お品書き ハチャプリ シュクメルリ』  一筆箋のお品書きを見るたびに、あの不思議な出来事は現実だったのだと実感する。  「思い」に引きずり込まれてなぜか群馬県に転移し、アカシアホーム群馬という介護施設に一晩泊めてもらった。翌朝、かなり早い時間にはるばる叔父が車で迎えに来てくれたが、施設の場所がわからず、近くの「蛇喰渓谷(じゃばみけいこく)」という場所で待ち合わせた。  叔父も、八王子で帰りを待っていた叔母も、根掘り葉掘り聞こうとはしなかった。ミチカも、口外する気はなかった。  あれから1か月以上経過している。  卒業論文は提出し、大学最後の講義も終えたが、就職先は決まっていない。  スマートフォンをバッグに仕舞おうとしたとき、着信音とバイブレーションが電話を告げた。登録していない番号だが、印象に残っている市外局番だ。確か、名刺をもらっていた。  とりあえず電話に出ると、電話口から「あ~う~」と声が聞こえた。その後、すぐに通話が切断された。  電車がホームに着き、車両のドアが開く。しかし、ミチカは電車に乗らず、財布から名刺を出してスマートフォンの履歴と番号を照らし合わせた。名刺の氏名は、アカシアホーム群馬の施設長、家塚弓子。電話番号も合っている。  ミチカはすぐにリダイヤルをした。 『お待たせ致しました。アカシアホーム群馬、アキサワでございます』  あれ、家塚施設長じゃない。ミチカは一瞬、考え込んでしまった。電話口から聞こえたのは、男性のなめらかな声だ。その奥から、「あ~う~」と聞こえる。先程も聞こえたあの声は、ふみさんというおばあちゃんのものだ。 「あの、えっと、先程、お電話を頂いて」 『施設長の家塚でしょうか。少々お待ち下さい』  保留もなく、すぐに電話の相手が替わる。 『ミチカさん、お久しぶりです。家塚です』  短い時間しか話していなかったのに、印象深い懐かしい声だ。 『すみません。ふみさんが何かを察したようで、電話を取りたがってしまって。ふみさんの声、聞こえていましたよね』  はい。しっかり聞こえていました。 『それで、ですね。わたくし、ミチカさんに嘘をついてしまいました。協力を強いることはしないと申しましたが、撤回します。ミチカさん、就職先が決まっていないのでしたら、うちの職員になりませんか? 介護の仕事をやってみませんか?』
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