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地方から東京に出ることを「お上りさん」と言うらしい。
東京からほとんど外に出たことがない者が地方に脚を伸ばすことを「お下りさん」ということはない。期待と不安が共存する状況は、地方だろうが首都圏だろうが、そんなの関係ない。
江原心愛、22歳。群馬に正式訪問するのは、初めてだ。
八王子駅から、JR八高線で2時間以上。山の中も電車で通過し、下車したのは、群馬藤岡駅。人がまばらで音が少ないことに、ミチカは驚いた。「思い」は東京と変わらずにその辺を漂っている。
駅舎を出れば、小さなロータリーを春の陽気がのどかに温めている。しかし、ミチカは気を張り詰めたままだ。
先日、アカシアホーム群馬の施設長、家塚弓子氏から、介護職員として入職することを提案された。可否はともかくとして、一度施設を見学してみないか、とも。
内定が出ていないミチカにとって、就職の話は願ってもないことだった。ただ、介護業界も介護職も視野に入れていなかった。介護の資格も持っていない。そんな自分でも、勤まるのだろうか。
見学だから私服で来て下さい、と言われたので、パンツスタイルの私服だ。遠目から見れば、スーツっぽいかもしれない。ストレートパンツに襟のあるブラウス、柔らかい生地のジャケット。靴は、パンプスに似たデザインのスニーカー。念のため、バッグには履歴書を入れている。
ミチカは断ったのだが、駅に迎えが来ることになっている。
1台の軽自動車がロータリーに滑り込んだ。その車は、ハザードランプを点けて停車スペースに止まる。
運転席から下りてきた人は、ミチカを見つめ、まっすぐ歩み寄ってきた。
「江原ミチカさん、ですね」
男性の滑らかな声。電話口の人だ。昭和の映画のような丸眼鏡が目を引く。作務衣のようなウエアに、羽織のようなデザインの上着を着ていた。個性的な服装の割に、纏う雰囲気は、もの悲しい。
「アカシアホーム群馬で生活相談員をしております、秋沢真澄といいます。今日は、施設長の家塚に代わってお迎えに上がりました」
名刺を受け取り、ミチカはぺこりとお辞儀をした。
「えっと……江原です! よろしくお願いします!」
お迎えに上がりました、の部分を謙遜しなかったことに気づいたのは、助手席に乗り込んだ後だった。
「すみません。バスで施設まで向かうつもりだったのに」
「後ろめたく思わないで下さい。バスは1時間に1本あれば多い方です。信じられないかもしれませんが、吉幾三の世界ですよ、ここは」
「吉幾三の世界……?」
赤信号で、車は止まった。
ふっ、と真澄が笑みをこぼす。
失言した、とミチカは思った。
「すみません! 私、変なことを」
「いや、いいんです。俺の言い回しがあれだったから」
「でも」
目を合わせずに話すのは失礼だと思い、ミチカは運転席を見た。
真澄は眼鏡を外し、手櫛で髪をかき上げる。予想外に美しい横顔に、ミチカは呆気にとられた。思ったよりも若い。
ミチカが見とれている間に、真澄は眼鏡をかけ直し、青信号で車を走らせる。
「ふみさんのこと、家塚さん……施設長から聞きました。皆が無事で、本当に良かったです。ふみさん、あの後から、ミチカさんのことを気にかけて、『来てもらうの~』ってきかなかったんです。でも、施設長があなたをスカウトしたのは、別の理由です。理由というほど明確なものではありませんが」
「でも、私、介護の勉強をしてきたわけではないですし、資格も持っていません」
「自分も、最初は無資格で未経験でした。でも、実務を積みながら資格取得も狙える職種です。匠……差し入れを持ってきた人とは会えなかったんでしたっけ。彼は看護師ですが介護は未経験で、でも施設長を務めていたこともあります。いつもにこにこ笑っていて、優し過ぎて、かえって怒りたいくらい」
匠という職員の話を始めた途端、真澄の雰囲気が変わった。もの悲しい空気が、穏やかで小春日和のような暖かいものになった。彼のことを気にかけて期待しているのだ、とミチカは判断した。
「お昼ご飯、持ってきていないでしょう。何か買いますか?」
「いえ、平気です。長くお邪魔する予定ではないですし」
「軽食を持っておくのが無難です。おすすめのお店があるんです」
車は、閑静な住宅街を抜け、のどかな田舎道を進む。
着いたのは、こんもりした丘の裏にある小さな店だった。古い建物を改築したようで、「ななこしパン」と看板があった。
「好きなものを好きなだけ選んで。家塚さんの奢りだから」
店内で、真澄に耳打ちされた。
ミチカは、店名と同じ「ななこしパン」をひとつだけ選んだ。
駅に迎えに来てもらっただけではなく、奢ってもらうなんて、待遇が良すぎる。遠慮しよう。そう、思ってしまったのだ。
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