第一章 あやし者の介護をすることになりそうです

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 「思い」が、ふわふわと漂っている。何もせず、ほこりと一緒に、漂うことを楽しんでいるように。「思い」が在るのはわかるが、気にならない。今までお邪魔した企業の中で、唯一嫌な気持ちにならない場所だ。 「やっぱり、そうなるよね」  天井を眺めるミチカと一緒に、休憩の職員も天井を見る。あの日の夜勤職員、詩織だ。  ご利用者様は昼間、「デイサービスセンター アカシア群馬」で過ごす。その間、夜間の居住スペースである「アカシアホーム群馬」の方は、早番と厨房の職員以外、誰もいない。職員は、「アカシアホーム群馬」の方で休憩を取る。ミチカは「アカシアホーム群馬」の中も見学させてもらい、その場の流れで職員と一緒に昼食を摂らせてもらっていた。真澄が「軽食を持っていた方が無難」と言っていたのは、このことだ。  「ななこしパン」は、丸と台形がくっついた形をしたパンで、甘い味噌が挟まれていた。初めて食べる素朴な味に、ミチカは素直に美味しいと思えた。 「ここに来られた人だもの。そりゃあ、わかるわよね」  ベテランの風格の女性職員が、四角い煎餅をくれた。「瓦煎餅」と袋に書かれた煎餅は、商品名の通り、瓦の形をしている。 「若い子が増えてくれると、おばちゃんは助かるよ。でも、あなたは優しそうだから、気をつけてよ。何かされる前に私に教えてね。私が守ってあげるから」 「何かさせるんですか!?」  猥談です、と、詩織が小声で答えた。 「学校で男子が普通に話すやつです。私は慣れているから、大丈夫だけど……」  上品で大人しそうな詩織は、微笑みながら、さらりと言ってくれた。 「そのくらいなら、私も大丈夫です」 「本当に、我慢しないでね」  ミチカも職員になるのを前提で、話が進んでいる。  ミチカが東京から来たと話すと、東京のことを色々と聞かれた。観光名所のことや、公共交通機関が発達していること、人の多さ、雑多具合。  こんなに人と喋ったのは、久しぶりだ。この空気なら、無理せずにいられるかもしれない。  昼休みが終わると、ご利用者様は敷地内を散歩する。  整備された庭園には、小さな水仙が花を咲かせていた。  ミチカも、ご利用者様と一緒に散策させてもらう。 「江原さん」  ミチカに声をかけたのは、あの大柄な男性看護師だ。ふみさんの車椅子を乗せている。 「来てくれて、ありがとうございます」  ふみさんは、車椅子に座って、うとうとしている。 「あのときのこと、話そうか、どうしようか、迷っていたんです。実は、あの黒いもやの中に、あなたのお姉さんの感情があって、昔の夏祭りのこととか、記憶らしきものがみえて、それが」  彼は口を閉ざした。  貯水池で悪い「思い」に攻撃されそうになったとき、ミチカと同じものを、彼も見たのだ。  姉が急逝し、ぽっかり穴が開いた感じは、今もある。でも、少しは癒えたと思いたい。他人に話せるくらいには。 「小さい頃、姉がお祭りに連れ出してくれたんです」  あれか、と彼は呟いた。ミチカの両親が事切れた、凄惨な記憶を、彼も見たのだ。 「最悪な結果を予測した姉が、凄惨な現場に立ち会わせないために私を外に連れ出してくれたんじゃないかと、今となっては思います。色々ありましたが、そのときの姉が、私にとっての姉で、姉は私の恩人です」  両親が不仲で、気の休まる場所がなかった我が家。夜の祭りで手を引いてくれた姉。姉がそうしてくれなかったら、ミチカは両親が殺し合う現場を見てしまったかもしれない。 「あの……変ですよね」 「変じゃないです」  かわいいよ~、と車椅子から声がした。ふみさんが起きたのだ。 「顔も名前も声もかわいいね~、って、まろくんが言ってたよ~」 「ふみさん!」  彼は目を伏せ、照れ隠しのように山の方を見る。栗色の髪が、柔らかい陽光を受ける。 「まろくん……なんですね」 「はい。本名とは全然違うのですが」  玄関に貼られていた職員紹介に、氏名が載っていた。  彼の氏名は、「黒沢 美九里」  可愛い名前だなんて言ったら、彼はまた照れてしまうだろうか。  柔らかな日だまりの中、ミチカは予感した。  自分はまた、ここに来る、と。
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