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あんずドロップ
グアムは年中、暖かいというのは正しい。
僕は今、グアムのショッピングセンターの前を、女性と一緒に歩いている。
女性という表現は、よそよそしい言い方だ。
隣にいるのは、結婚したばかりの妻だ。まだ『妻』と呼ぶのに慣れていない。
何だか照れるというか、気恥ずかしいというか、そんな感覚だ。
日本で結婚式を挙げ、入籍を済ませ、有給休暇を連続でもらって、新婚旅行に来たのだ。
僕は、小さい頃から父の仕事の関係で、頻繁に引っ越しをした。
海外に住んでいたこともあるので、英語は堪能だ。
対して妻は、今回が初めての海外旅行だった。
英語が苦手だと不安がっていたが、到着すると、日本と違う雰囲気がすっかり気に入ってしまったようだ。
「あっ、猫!」
ショッピングモールの入口近くを、猫が通り過ぎた。海外に行くと、日本人よりもサイズが大きい外国人にいつも驚かされる。
猫も同様なのか? 猫は、ぽっちゃりと太っていた。
「健太、実家で昔、猫、飼ってたんでしょ?」
健康的なショートカットを揺らして、里美が僕の顔を覗き込む。
「ああ。高校一年のときな」
「元ノラ猫ちゃんだったんだよね」
もう、この話は何度目か覚えていない。里美はこの話を聞くのが好きなようで、繰り返し聞きたがった。
「うちの借家、一戸建てだったんだけど、家の前で見かけて餌をやった。あまりに綺麗な猫だったんで、母さんが捕まえちゃったんだ」
「どこかの飼い猫が逃げ出したと思ったんだよね」
覚えているじゃないか、と思いつつも説明を続けた。その猫は青い目で、銀色の毛並みが綺麗な猫だった。
しかし、日本猫との混血だったようで、気品はあるが、どこかしらその辺のノラ猫と似た印象もあった。
「水を飲むとき、皿に手をつけるんでしょ!」
「そう、変わった猫でね。手についた水を舐めながら水分をとってた」
「動画、撮っておけば良かったのに。バズったかも」
その程度でSNSにアップしてバズるのか分からない。僕は、そっち方面に興味はないのだが、動画を残しておけばよかったとは思う。
「あと、極めつけのアレね」
「そう、ウォシュレット」
里美は、前にした僕の話を思い出したのかクスクスと笑い始めた。
どこかの飼い猫じゃないかと方々に声を掛けたが、結局、飼い主は見つからなかった。結果、うちで飼うことになった。
名前は『アンズ』にした。アンズちゃんは女の子だった。
とても人懐っこい猫。女性よりも、男性、特に僕にはなついた。
餌をやるときしか寄ってこないアンズちゃんに、母さんは「この子は男好きね」などと言われていた。
アンズちゃんは、人間の真似をしてトイレで用を足した。
そして、人間が操作する様子を見ていたのか、壁に装着されたスイッチに器用に手を伸ばしたウォシュレットでお尻を流したのだ。
これは動画に撮って、SNSに上げたら確実にバズっただろう。
「でも、いなくなっちゃったんだよね」
「残念ながらね」
外に出さずに飼っていた。
一年ほど経ったころ、窓の隙間から外に出て、居なくなってしまったのだ。いつも、ベタベタしていた僕の精神的ダメージは大きかった。
「引っ越しばかりで、高校に入っても友達ができなかったんだけど。アンズちゃんが癒してくれたって感じかな」
「ふーん、彼女みたい」
里美は、ぷーっと頬を膨らませた。相手は猫なので、当然、冗談ではあるが。
「首輪に居場所を探す装置を付けてたんだけど、結局、見つからなかったな」
今でこそ、こんな感じで話せるが、当時は本当に落ち込んだ。
首に付けていたのは鈴型の発信機だった。スマートフォンの近距離通信機能を使って、半径数十メートル以内に居ればお知らせしてくれるものだ。
カバー範囲が狭いので、近所を何度も歩き回った。少しずつ範囲を広げたが見つからなかった。
発信機には小型のソーラーパネルが搭載されており、バッテリー切れの心配はなかった。しかし、数か月の捜索で一度も反応が現れることはなかった。
「私、おもちゃ屋、見たい!」
僕たちはショッピングモールに入り、おもちゃ屋さんへ向かった。
店の前には、日本ではみかけないキャラクターのおもちゃが並んでいた。
「これ、可愛い!!」
ワゴンに詰まれている、スポンジを模したキャラクターの人形を手に取った。どこが、可愛いか全く分からないが、一応「本当だ」と合わせておいた。
そのときだった。ポケットに入れていたスマートフォンが小さく振動した。
ロックを解除して画面を見た僕は、驚きのあまり固まってしまった。
『アンズちゃんを発見しました』
画面にお知らせが大きく表示されていた。
起動していたのは、鈴型の発信機に対応したアプリだった。
――あり得ない!
思わず叫びそうになって、グッと飲み込んだ。似たような電波を拾って、スマートフォンのアプリが誤動作したのだろう。ここは、日本から数千キロも離れたグアムだぞ。
それに、アンズちゃんが失踪したのは十年も前……でも待てよ。発信機はソーラー発電だ。今でも壊れずに機能している可能性はある。
いや。やっぱり、あり得ない。
僕は周囲を見渡した。ショッピングモールの一階は、沢山の人で賑わっていた。もちろん、猫の姿は見えない。
やっぱり誤動作……と自分を納得させようとしたときだった。
エスカレーターで二階へ移動する、一人の女性の姿が目に入った。
理由は一つ。
ジーンズ姿のその女性のお尻のポケット。そこに差されていたスマートフォンに金色の鈴がぶら下っていた。
「里美、ちょっと、ここでおもちゃ見てて」
「えッ、なんで?」
唐突な僕の指示に戸惑う里美に小さく手を上げて「トイレ!」と言いながら、エスカレーターへ向かって走り出した。
二階に到着した僕は、左右を見渡す。
両端に店が並ぶ通路に、女性の姿はない。
上を見上げる。
いた!
女性はエスカレーターで、更に上の階へと向かっていた。
僕は急いで、上りエスカレーターへ飛び乗った。
三階フロアに到着。見失うことはなさそうだと思った僕は、距離をとって彼女を尾行した。
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