550円の幸福

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 客のいない寂れた空間には、辺鄙な街の何処かの店の、名も無き食べ物を紹介する、妙に明るいリポーターの声だけが響いていた。店の前を、自転車に乗った少年二人が駆けていく。今日が休日であることを思い知らされるような光景だった。  「佐々原くん。今日もまかない食べるよね?」  「ッス。すいません、いつもタダで食わせてもらって」  「いいんだよ。僕も昔はお金に困っていたからね」  店主──芦名さんがリモコンを手に取ったことで、再び静寂が訪れる。何のバイトをやっても長くて二ヶ月ほどしか続かなかった俺が、ここだけはもう一年以上勤められている。理由は全部、芦名さんにあった。いつもタダで飯を食わせてくれるし、好きに煙草を吸わせてくれるし、俺とは真逆の性格をしているように見えて、同じ匂いを纏っているから、なのだろう。  俺が無言で煙草に火をつけても、芦名さんは何も言わない。それどころかズボンのポケットから一箱取り出して、換気扇の下に立つ俺の隣に並んだ。指が箱の底を叩くトントン、という小気味よい音が響く。  「煙草の値段が上がる度、世の中の世知辛さみたいなものを感じるんだよね」  「分かります。でも、煙草辞めるくらいなら飯抜いたほうがマシなンで」  「間違いないや」  煙を吐き出す。ここには馴染みの客しか来やしない。だから好きに過ごせばいいと初日に言われて、図々しくもその通りにやっている。休日のこの時間、特に誰も来ないことも知っている。このラーメン屋は知り合いから譲り受けたもので、半分趣味みたいなものだと以前芦名さんが言っていた。バイトなんて雇うつもりはなかったが、値段が安いという理由で通い始めた俺のために、金を稼げる場を用意してくれた恩人だ。時給もそこそこ出してくれる。  「金持ちになりてぇなぁ」  「……時給、もう少し上げようか?」  「や、いいッスよ。芦名さんには申し訳ないくらいよくしてもらってるンで。自分で言うのもアレですけど、俺なんて他のところじゃそっこークビっスよ」  「そうかな? 佐々原くん、よくやってくれてると思うけど」  「ハッ、それアイツに聞かせてぇっスわ。『お前は常識だとか倫理観だとかが欠如してる』って言ってきた大学の同期に」  「おや、手厳しいお友達だね」  「友達じゃねぇっスよ。アイツと百万が海で溺れてたら、迷わず百万の方助けるンで」  「シチュエーションが稀有すぎて何とも言えないな……」  換気扇がゴオゴオと稼働する音。一つ回るたび、肺も毒に侵されていく。その感覚に浸っているときだけが、まざまざと生を実感できる。  収入がもう少しあれば、月に吸える煙草の本数を増やせるだろう。ちょっと贅沢な飯を食うことにも、何処かのブランドの服を着ることにも、少しの喜びも湧かない。  俺が小学生の時、母親はわざわざ家族を捨ててまで金を持っている男の元へ去って行った。だからこの世は金が全てだということが正しいということくらい、分かりきっている。そう考えたら、ある程度のことは飲み込めた。  「そういえば、その同期に妙な提案されて」  「へぇ。どんな?」  「そんなに金に困ってンなら、指名手配犯でも探してみればって」  「……指名手配犯?」  「俺も同じような反応しましたよ。SNSで最近流行ってるらしいっス」  「佐々原くんは知らなかったの? SNSやってそうなのに」  「や、一円にもならねぇじゃねぇっスか。稼げるならやりますけど」  芦名さんが穏やかに笑い声を上げる。俺の言動一つとっても、これまで否定するようなことはしなかった。曰く、昔の自分を見ているような気持ちになるらしい。芦名さんが言うには、当時の自分より俺の方が何百倍もまともな人間らしいが、そんなことはねぇだろうな、と思っている。  「常連の宮崎さん、いるだろう? 彼がね、言ってたよ。金より大事なものは愛だって。愛さえあれば生きていけるって」  「くだらねぇ……つか、宮崎さんって競馬好きじゃなかったっスか?」  「うん。それで奥さんに出て行かれちゃったんだって。失ってから大切なものに気付いたって言ってたよ」  「へぇ。俺にはよく分かんねぇっスわ」  「……でも、そんな風に思えるようになったら、それは幸せなことかもね」  芦名さんのことは、実のところあまり知らなかった。年齢は確か三十五歳。過去どうだったのかは知らないが、少なくとも今は結婚している様子ではない。子供も多分いないのだろう。芦名さんは穏やかで、優しくて、むしろ他人を優先することの出来る人間に見える。男の俺から見ても、モテそうだな、とは思う。  「俺、金より大事なものって無いと思ってます」  「うん。だけど、恋愛感情なんかじゃなくても、自分の利益より優先したいと思える他人とか、物事とか、そういったことに出会えるのは素敵なことかもしれない」  「……想像つかねぇけど、そんな風に思えるもんなんすかね」  「佐々原くんはまだ若くて、何も間違っていないんだから、焦る必要はないんじゃないかな」  ふと、レジカウンターの上に目線を移した。何の特徴もない、シルバーのシンプルなライター。テーブルの上に忘れられていたそれを俺が見つけたとき、芦名さんは迷うことなくそれが乾さんの持ち物だと断言した。  乾美咲。二十代後半か三十代前半くらいの、この店には珍しい女性の常連客。  「乾さん、今日来ますかね」  「……気になる?」  「や、俺は別にっスけど。芦名さんの方こそ、」  俺の見立てが間違っていなければ、芦名さんは、多分乾さんのことを気にしている。彼女が来店するたびよく視線を向けているし、今回だって真っ先に私物を言い当てた。  金がかかるから、恋愛なんざしようとは自分では思えないが。芦名さんには恩があるし、なるべく幸せになってもらいたいとは思う。そういう意味で、俺も乾さんのことはちょっとばかり気にしていた。
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