550円の幸福

3/6
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ
 その日は雨が降っていた。薄汚れて、かつて透明だった頃の面影もないビニール傘を差し、いつもより黒く染まったアスファルトの上を小石を蹴り飛ばしながら歩く。舗装されるらしいという噂が立ってから既に半年が経ったが、今日も変わらず歪な形をしていた。  ガツン、と一際強く石が飛んで、あ、と思ったのも束の間、その先に誰かの足が見えた。一度小さな水溜りを経由して、勢いを緩めることなく転がっていく。頼むから当たらないでくれ、とただそう願った。  「あれ?」  「……さーせん」  「え、何が? それより君、バイトの子じゃない?」  俯いていた顔を上げて、ひとまず安堵した。何かイチャモンをつけられて金を巻き上げられることはなさそうで、最早それくらいのことしか恐れることはなかったからだ。  「っス。……あー、乾さん、ですよね?」  「そうそう。覚えてくれてるんだ。嬉しい」  「あの、店にライター忘れてねぇっスか」  「……あぁ! アレ、失くしちゃったのかと思ってたの。お店にあったのね」  「保管してるンで、また取りに来てください。つか、乾さんも喫煙者だったンすね」  「いや、私は吸わないよ。……あのね、それでもライターを持ち歩かなきゃいけないくらいには、この世界ってまだまだ生きづらいのよ」  乾さんは髪を耳にかけて、存外快活そうに笑った。何の仕事をしているのかは知らないが、いつもスーツをきちんと着ている。店に来るとき、大体七割くらいは疲れきった顔をしているので、多分ブラック企業に勤めているんだろう。  「今日もバイト?」  「や、今日は違くて。さっきまで大学にいました」  「そうなの。じゃあ家に帰るんだ?」  「まぁ……でもせっかくなンで、馬鹿げた誘いに乗ってやろうかと思って」  「何?」  「指名手配犯を、探してみようかと」  乾さんも、芦名さんと同じように怪訝な表情のまま言葉を詰まらせた。当の間宮はもう俺にそんな話をしたことすら忘れているだろう。別に本気で信じているわけじゃないが、ただ家に帰って、飯を食って、煙草を吸って、寝ているだけでは金は減っていく一方だ。どうせ暇ならやってやらないことはない。暇つぶしと言えば、まぁその程度のものだが。  掻い摘んで事の経緯を話して、そしたら乾さんが声を上げて笑い出した。傘が揺れて、水滴が飛び散る。それくらい、彼女は大きく笑っていた。  「アハハ! いいねぇ、やりなよ! もし君が本当に見つけてくれたら、私達の仕事も楽になるなぁ」  「仕事?」  「うん。私ね、こう見えて刑事なんだよ。意外でしょう」  「……マジっスか」  俺の中にある刑事のイメージ像は、何というか、乾さんの全てを百八十度ひっくり返したようなものだった。粗野で、冷酷で、愛想が無い。別に過去に何かがあったわけじゃないが、とにかくまぁ、そういうものだと思っていた。  そういえば、半年近く前に近所の交番の警察官が店に来たことがあった。ラーメンを食べに来たわけではなくて、何かの聞き込みだったか、それはもう覚えていないけれど。いつも朗らかな芦名さんの顔から珍しく笑顔が消えていて、最低限の受け答えをした後、ピシャリと音を立てて引き戸を閉めていたから、何となく印象に残っている。  「それにしても、さっきのライターの話だけど。よく私のだって分かったね? 何も特徴は無かったはずだし、あまりお店で取り出したことも無いと思うのだけど」  「正直俺には分かんなかったっスけど、芦名さんがそう言ってたンで」  「……へぇ。ねぇ君、芦名さんのことどう思う?」  「え? まぁ……好きですよ。色々世話になってるンで、感謝もしてるっス」  「そう」  乾さんの顔から、緩やかに笑みが消えた。何だか居心地が悪くなって、無意味にシャツの裾を引っ張る。  「あの、何か?」  「ううん。……あー、あのね、何て言うのかな……たぶん、というか絶対、こんなこと言っちゃいけないんだろうけどさ」  「……はい?」  「芦名さん、見覚えがある気がするんだ。似てるの、何となく」  「……誰に?」  いつの間にか雨は止んでいて、乾さんはゆっくりとした動作で傘を閉じた。俺と同じ、けれどまだ綺麗なビニール傘。俺もそれに倣って傘を下ろし、乾さんに掛からないように手を後ろに伸ばして水滴を払った。  じめっとした雨の匂いがする。雲が黒くて、空も黒くて、乾さんの瞳に映る俺にもきっと、影が差していた。何故か、それから目が離せなかった。  「……十年前、銀行強盗を犯したグループの内の一人に、ね」  随分遠くで、パトカーのサイレンが鳴り響いているような気がした。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!