550円の幸福

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 乾さんは、中々店に来なかった。あの日流れで連絡先を交換することにはなったが、特に何か連絡を取ることもない。芦名さんはいつも通りで、時折カウンターに置かれたままのライターを見つめる以外は、普通だった。  あの日乾さんと別れた後、急いで家に帰り彼女が口にした銀行強盗の事件について調べることに時間を費やした。乾さんが刑事人生で初めて担当した事件だったから、今でも密かに調べ回っていたらしく、芦名さんに目をつけたとのことだった。  分かったことは、一ヶ月後に時効が成立することと、犯人の内の一人の身長や体格が芦名さんと似ていることくらいで、当然芦名さんがその時の犯人だと決めつけられるような証拠は何もない。それに安堵して、そしてようやくヤニ切れを自覚するくらい、焦っていた。  ……逆に言えば、それが芦名さんではないと言い切るだけの証拠も、やっぱり無かった。  「芦名さん」  「ん?」  「俺、この前たまたま乾さんに会いました。ライターのことも伝えときました」  「あぁ、そうなんだ。ありがとう」  「乾さんにも話したンですよ。指名手配犯のこと」  「……へぇ。何か言ってた?」  「笑ってました。あと、別れ際に、殺人犯を探すのは危ないから気を付けろとも言われました」  「そうだね」  作業の手を止めることなく、会話は淡々と進んでいく。三、四人ほどの客は皆、店の壁に掛けられたテレビに夢中でこちらを気にしている様子もない。いつも爪楊枝を咥えて新聞を広げている常連のおっさんの咳払いが一つ、厨房にまで響いた。  「俺、金より大事なものって無いと思ってます」  「……僕もだよ」  「極論、金が貰えるなら大学の同期のヤツが海で溺れてたって見捨てるだろうし、どうでもいいんですよ、割と」  「あぁ、言ってたね」  「でも俺、芦名さんのこと結構好きなンで」  「……うん?」  「……もし芦名さんが何か罪を犯していて、俺が警察に突き出したことによって多額の謝礼金を貰えたとしても、そうはしないだろうなって。……何となく、そう思っただけです」  テレビから流れる雑音と、換気扇の回る音。店内はそこそこ騒がしく、それでいて俺たち二人を取り囲む時間だけが止まっているようにさえ感じた。きっとこの場に乾さんがいたら、横目で睨まれていたことだろう。  「それは……」  芦名さんはそこで初めて手を止めた。目を瞑ったまま、数秒上を見上げる。  「……光栄なこと、だなぁ」  とても清純な空気が循環しているような、春の風の中に混ぜられたような声でそう呟いて、芦名さんは穏やかに口元を綻ばせた。  何か声をかける気にもなれなくて、ただただ、あぁ、そうか、と思った。  「僕はね、いざお金を手にしてみると、何だかそれだけで満足してしまったというか……結局はまぁ、手持ち無沙汰になってしまったんだ。……何にも、満たされなかったんだよ。……ずっと、後悔していたんだ」  「……」  「佐々原くん。僕は今、もしかしたらお金が無かった頃のように、生きていることを実感できているのかもしれない」  僅かに視線を俺の方に向けて、そのまま、目尻に皺が出来るほどに柔らかく微笑んだ。  「……ライター、早く返さないと、だねぇ」  芦名さんの声はいつもと変わらない。あるとすればそこには、幸福のようなものが混じっているような気がした。
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