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このホテルのラウンジには何度かお見合いで来たことがあるが、夜の顔を見るのは初めてだった。煌びやかなシャンデリア。各テーブルで揺れる蝋燭。何かを秘めているようなディープな夜の雰囲気だ。店員も客も皆、腹に一物抱えた顔をしている。私は魔の巣窟に迷い込んでしまったように落ち着かず、心臓がずっとドキドキしっぱなしだった。
大きな窓から見える三日月を見上げて、ウィルさんが「ほう」と溜息を吐く。
「今夜の月は血を浴びた様に真っ赤ですね。胸が騒ぎます」
「は、はあ」
今日は良い天気ですね、と同じ感じには受け取れない。
「何を飲まれますか?」
「えっと、オ、オレンジジュースで」
「ご一緒にケーキはいかがですか?あ、夕食を召し上がってしまいましたか?」
とてもそんな気分ではないと思ったが、夕食を食べ損ねた空腹には抗えない。気を遣わせないように軽く食べて来たと嘘をつき、デザートの気分だと言って苺のショートケーキ……やっぱりカボチャのタルトを選んだ。
「カボチャがお好きですか!僕もです!」と喜ぶウィルさん。やはりこれが正解か。彼はウェイターを呼び、注文する。
「かしこまりました。ご用意の間に当店からの贈り物をどうぞ。シェフの特製フィンガーフードです」
ウェイターが恭しく、蓋で覆われた皿をテーブルに置いた。銀色の丸蓋が取り払われた瞬間、私はギョッとして飛びのく。立ち上がった衝撃で椅子がガタンと倒れた。
皿の上に並んでいるのはまさしくフィンガー。丸々とした人間の指である。皮膚の下にうっすら見える血管も、黄ばんだ爪も、紛れもない指だ。ウェイターが倒れた椅子を直す。ウィルさんが「大丈夫ですか?」と重そうな首を傾げた。
「ゆ、指!」
「美味しいですよ」
ウィルさんは指をつまみ上げると、口の穴へそれを突っ込む。私は吐き気がこみ上げその場に蹲った。店内がざわつく。ウィルさんが慌てたように私の元に駆け寄ってきて、耳元で囁いた。
「あまり目立つことをしてはいけません。あなたの正体がバレては大変だ」
(……何の話?)
優しい声に、もしかしたら私の見間違いだったのかもしれないと縋るように彼を見上げる。しかし無情にも、彼は私の鼻先に“指”を突き出していた。近くで見ればそれには指紋まである。やっぱり人間の指なんだ、ここは食人レストランなんだ!恐怖でパニックになる私の口に、ウィルさんが無理矢理それをねじ込んで来た。必死に吐き出そうとする私の口を彼は凄い力で抑え込み「美味しいですから」と言い聞かせるように言う。
美味しい訳ない!と思っていても、意志とは無関係に舌が味を感じてしまう。……あれ?私は恐る恐る歯も立ててみた。カリッ、サクッ、ジュワ。ドロリ。
それは香ばしく焼かれたパンだった。中から甘酸っぱいベリージャムが溢れ出る。
「お、美味しい」
喉を通り、私の中に落ちていく甘美。空腹が少し満たされると共に、私の心は一気に落ち着き、ドキドキが収まる。奇々怪々なラウンジ、隣の客のグラスに浮かぶ目玉、何も気にならなくなった。
私の反応に、ウィルさんはホッと息を吐く。ウェイターや他の客の視線が剥がれていく。私は一人取り乱した事が恥ずかしく、何度も謝罪した。カボチャ頭は笑っているようにしか見えないが、その奥もそうであると願うばかりだ。
そして無事、お見合い再開。お互いに話のとっかかりを探り始める。
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