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1 鬼の子、間引きを逃れる
下北啓一郎を母体から取り上げた産婆は、すぐに異変に気づいた。産湯に赤子を浸しているあいだ、眉間に皺を寄せっぱなしであった。
「シマ子婆さん、どんなあんばいやね?」父親の徳次郎が勢い込んで尋ねた。「どこも悪ないんやろ」
産婆は答えなかった。ただしきりに首を振っているばかりであった。
「なんで黙っとるんや」徳次郎の顔が熟す前の梅のように青ざめた。「ゆ、指の一本でもないんか。この子は片輪なんか……?」
「そんなもんとちゃう。鬼の子や」シマ子は赤ん坊の首に両手の親指をあてがった。「ええな?」
「ええわけあるかッ!」父親は老婆を押しのけ、赤子の小さな胸にぴったりと耳を寄せた。聞きちがえようもなかった。「信じられん。う、動いとる。心臓が……動いとるッ!」
「鬼の子や言うたやろう。あとはわしに任せとき」
父親は歯を食いしばったまま、歯の隙間から声を絞り出した。「頼む、シマ子さん」
「やめて……」
二人がいっせいに声のしたほうへ振り向いた。声の主はお産直後で弱り切った佳子であった。
「ウチの赤ちゃんやよ。間引かんといて」
「佳子、聞いとらんかったんか。この子は鬼の子や、心臓が動いとるんや」
「ウチの子やよ」
「わかっとる、わかっとるが、なんせ――」
「ウチの子やって言うとるんやてッ!」
佳子から見えない角度で赤子の首に親指を食いこませていた産婆の手が、このすさまじい剣幕で止まった。
「シマ子さん、手、離しい」佳子は股から血を滴らせながら、産婆のほうへにじり寄った。「その子間引いたら、アンタも同じ目に遭わせたる」
老婆は大げさに両手を挙げた。「離した、離した。この通り指一本触っとらんて」
佳子は匍匐姿勢でなおもシマ子のほうへ這い進んでいる。
「わ、わしゃもう帰る」老婆は腰の曲がり具合からは想像もできないスピードですっ飛んでいった。「でらおそがいがや……」
「佳子、わかっとるんか。この子は鬼の子やぞ」
「それがどうしたんや。ウチらの子にはちがいあらへんやろ」
徳次郎も母の執念にはついに根負けした。「わかった。この子は啓一郎いう名前にしようや」
こうして生まれつき心臓が動く鬼の子、啓一郎は間引きを生き延びたのであった。
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