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「おれ以外の人にいれてください!」
まず聞こえたのは、そんな声だった。
はぁ? やる気がないのかこいつ? 一体だれがこんなことを、と呆れ返ってそちらを向くなり、僕は驚いて足を止めてしまった。
聞き覚えのある声が大音量で響き渡る。
「こんにちは! 田中太郎、田中太郎です! こんにちは!」
それは知ってる名前ではなかった。
いや、知ってる名前なのだが、違う人の名前だ。
公約を何度も繰り返し叫ぶ彼は、呆然としている僕をおかまいなしに、道行く人に声をかけていく。そのまま通り過ぎようとしていた人びとも、おや、と一瞬驚いた顔をして、思わず足を止めてしまっている。
まさか、本名とは違う名前で出馬したのだろうか。それは違法だぞ。さすがにバレて当選するまい。
人が集まると、突如、しんみりと語りだした。
「おれ、昔は刑を受けてたんです。その間、ずっと考えていました。おれが刑を受けるだけでは、迷惑をかけた皆さんに何も返せない。だからおれは皆さんのために生きようと決意して、更生して、やっと出馬できました!」
バカいえ。お前はそんなやつじゃないだろう。
根っからの彼を知っている僕には、少し刑を受けただけで、改心する人間だとは到底思えなかった。
彼は自分に酔ったまま、演説を続ける。
「ですが、受刑者なんて、皆さんは票をいれたくないでしょう。いいんです。他の人にいれてください! いいんです。ただ、この演説は、おれからの気持ちです! 田中太郎、田中太郎です。よろしくお願いします! ご清聴ありがとうございました!」
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