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結論からいうと、この床拭き対決を制したのはリリスの方だった。
その速さを目の当たりにして、ユーリをはじめとする観客側の使用人たちは呆然としていた。誰もが、まさかリリスが勝つだろうとは思っていなかったようだ。
「リ、リリス様、すごいです!アベルさんに勝っちゃうなんて……」
「ふふ、勝負はやってみなくちゃ分からないって言ったでしょう?」
ユーリからの称賛の言葉に、リリスはにこりと笑ってそう言った。
「くそっ!」
一方のアベルは予想だにしていなかった結果に、床を叩いていた。リリスは座り込んでいるアベルの隣にしゃがむと、その横顔を覗き込んだ。
「『あんたみたいな女が勝てるとは思わねぇ』と言ったのは、誰だったかしらね」
そう言われてしまえば、アベルも立つ瀬がない。少なくなりつつある髪をわしゃわしゃと掻き撫でたあと、「勝てると思ったんだ!」と悔しがった。
「……こう見えてリリス様は運動神経がよいのです」
「『こう見えて』は余計よ、ルーナ」
元王女である主人に床拭き対決なんてさせられないという気持ちは十分にあったのだが、リリスのことをよく知っているルーナは、疑うまでもなく主人の勝利を確信していた。アベルは大きなため息をついてから、改めてリリスの方に向き直った。垂れ目がちのやさしい瞳が、アベルを見つめ返す。
「勝負は勝負だ!俺は負けた。だから、王女様の言うことを何でも、き、聞きます」
腹をくくったアベルは、リリスをまっすぐに見つめた。リリスは「では」と切り出すと、アベルの眼前にスッと手を差し出した。その手を不思議そうに見つめるアベル。リリスは、ふと頬を緩めると
「私のことを『リリス』と呼んでください、……『王女様』ではなく」
と言った。思いがけない言葉に目を丸くして驚くアベル。
「そ、それだけですかい……?」
それに対してリリスは首を傾げながら「どんなお願いを私がすると思ったのですか」と笑った。
「てっきり俺は、奴隷になれだの、何だのとこき使われるもんかと……」
「たかが床拭き対決くらいで、そんなお願いしたりしません」
眉を下げて苦笑したリリスに、アベルはもう一度深いため息をついた。そして、目の前に差し出された手を見つめる。細く、いまにも折れてしまいそうな手。「そういや、あいつもこんな手だったな」と呟くアベルの横顔は、とても寂しげだった。
「……王族の人間だからと、俺はあんたのことを誤解してました」
アベルの言葉に、リリスは「そういうものだと、理解しています」と顔をうつむかせた。けれど、次の瞬間。差し出した手に温もりを感じ、顔を上げた。
「けど、何だかあんたは違うみたいだ。これから、よろしくお願いしますぜ……リリス様」
そう続けたアベルにリリスは目を見開いて驚いたあと、「こちらこそ」と、にこりと微笑んだ。
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