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◇◇◇
突然、手を跳ね除けられ呆然とするリリス。明らかに様子がおかしいダリウスに、リリスも戸惑っていた。室内は小さな明かりを灯しただけだったが、大きな窓から差し込む月明かりでダリウスの表情はよく見えた。
(どうしたのかしら……)
息は荒く、汗もかいていて顔色もひどい。寝ているときも眉間にシワを寄せ、苦しそうにしていたが、いまはもっと辛そうだった。リリスは、恐る恐るといった感じでダリウスに近づき、「大丈夫ですか」と、そっと顔を覗き込んだ。
「……なにか、私にできることはありますか」
食事の場でベリックが突っかかってきたときに、堪えていたダリウスの姿が頭をよぎる。苦しんでいるのなら、手を差し伸べてあげたい。だから、そう声をかけたのは心からの言葉だった。けれど──。
「……そうやってあの男にも、やさしい顔を見せて誑かしたのか」
返ってきたのは冷たい声だった。
「なにをおっしゃって──」
「いつもニコニコ笑って優しい顔をして……、そうやって相手の懐に入り込んで、相手を思うままに動かすのがお前のやり方なのか」
俯いたままだったダリウスがゆっくりと顔を上げる。鋭い切れ長のその瞳が、リリスのことをキッと睨みつけた。
「ダリウス、さま……?」
明らかに拒絶の意が表れていた目に、リリスは困惑した。寝る前までと、まるで違う様子である。
「あの馬鹿王子を手玉に取ることなんて、お前には容易いことだろうな」
「そんなこと、私は──」
「俺のことは、もう放っておいてくれ」
ダリウスはそういうと、ソファから立ち上がって部屋の入り口へと向かおうとした。リリスはそれを引き止めようとして、「待って」と、とっさにダリウスの腕を掴む。このまま行かせてはダメだと感じての、とっさの行動だった。だが──。
「離せ!」
すぐにそれは振り払われた。それでもリリスは諦めず、ダリウスに向き直った。
「私、そんなつもりで言ったわけでは……っ」
誤解を解こうと話をしようとした。けれど、ダリウスの鋭い視線は変わらぬまま。初めて出会ったときと同じ、冷たい目をしていた。
「だったら言い方を変える。俺は助けを望んでいない。これ以上、俺に構うな」
くるりと背を向けて、そう言ったダリウスに今度はたまらず、リリスが声をあげた。
「でも、それだとずっとダリウス様が苦しいままじゃないですか!」
しんと静まり帰る部屋。
「あなたは、ずっとひとりで苦しんでいるじゃないですか……」
リリスに向けられたダリウスの目に浮かんでいたのは、怒りだけではなかった。孤独も見えたのだ。平和になったこの世界で、英雄と讃えられた彼はいまもまだ苦しんでいる。
「……私ができることがあれば、なにかしたいと思ったのは私の本心です。決して、邪な気持ちがあってのことではありません」
「だから、なんだ」
「思っていることを話してみてください。それで心が軽くなることも──」
「必要ない」
きっぱりとそう言ったダリウスに、リリスは手のひらをギュッと握りしめた。岩のように閉ざされた心。どうすれば、と考えてみても、答えは出てきてくれない。
「……お前は俺を助けたいと言うが、俺はそれを望んでいない。それなのに、俺を助けようとするのは、お前がいいことをして気持ちよくなりたいからだ」
そして、ダリウスはふと笑うとこう続けた。
「知ってるか?……そういうのを『偽善者』と言うんだ」
低く、冷たい声がリリスの耳に響いた。
「多くの仲間を失った俺の苦しみが、お前に分かるはずもない」
「戦場から離れた城の中で幸せに暮らしていた、お前にはな」と続けたダリウスは、リリスに背を向けて部屋を出ていった。バタンと閉まった扉の音が大きく響く。
『リリス様には、ダリウス様と向き合う覚悟がおありですか』
あのときクロードが言っていた言葉の意味が、いまなら分かる気がした。月明かりが差す静かな部屋のなか、リリスはソファに座り込み俯いた。
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