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◇◇◇
「お上手ですね、ダンス」
ダリウスにリードされ踊ったリリスは、夫の意外な一面に驚いた。一通りダンスを終えた二人はダンスの輪から外れ、いまはバルコニーから会場を眺めている。リリスの言葉ダリウスは、ふいと視線を外すと、「特訓されたからな」と小さく呟いた。
「特訓……?」
「ここへ来る前、クロードやマチルダに礼儀作法とダンスを叩き込まれてきた。……お前に恥をかかせるな、と」
「あの二人が?」
驚くリリスに罰が悪そうに目を合わせてきたダリウス。
「……せっかく作ってくれた手料理を、『こんなもの』だなんて言って悪かった」
ぶっきらぼうな謝罪に、リリスは目をパチパチと瞬かせたあと、ふと笑みをこぼした。本心からの言葉でないことは、なんとなく気づいていた。
「もしかして、それであの二人に怒られたんですか?」
「特にマチルダには、かなりな」
マチルダがダリウスに詰め寄る様子が思い浮かんだのか、リリスは堪えきれず、さらに笑った。隣にいるダリウスも、そんなリリスの様子に安堵したのか、ふと肩の力を緩めた。
(それにしても、今日は随分と雰囲気が違うわね)
改めてダリウスのことを見ると、普段の雰囲気との違いに驚くばかり。
きっと、今日の服装やヘアセットなどもマチルダの見立てなのだろう。いい意味でダリウスらしくない装いに、リリスは先ほどからずっとドキドキして落ち着かない。手元のシャンパンをぐいと飲んで心を鎮めようとしたが、まだ胸の高鳴りは収まりそうになかった。
と、そのとき。ダリウスの視線が自分の手元に向いていることに気づき、とっさに手を引っ込めようとしたリリス。だが、それよりも先にダリウスに手を取られて、グローブも外された。
「この傷……」
そう呟くダリウスに、リリスは先ほどエリーゼに言われたことを思い出した。
『でも、お姉様は昔から綺麗な手だって、いろんな男性から褒められてたじゃないですか。それを思うと、私……っ』
周りから向けられた憐れみの目。やはり、こんな傷だらけの手は見苦しいものだろうか。
リリスはさっと作り笑いを浮かべた。
「す、すみません、お見苦しいものをお見せして。包丁を使っていたときに、ちょっと」
そう言って手を引こうとしたリリス。だが、ダリウスはぐいとリリスの手を引っ張ると、そのまま手のひらに、そっと口づけた。
遠くの方から「キャア!」という歓声が聞こえたような気がしたが、あまりにも突然のことに「あ、あの」と言葉に詰まるばかりで、リリスは反応に遅れた。
「見苦しくなんかない。それに──」
すぐ近くで聞こえた低い声に、ドキリと音を立てる胸。
「俺のために一生懸命、慣れない料理を作ってくれたんだろ。それを喜ばない男がどこにいる」
面と向かって、まっすぐに見つめられながら、そう言われ、リリスの頬がじわじわと赤く染まる。あまりの恥ずかしさに顔を逸らす。なにか話題を変えねばと思って、
「そ、それで、おいしかったですか。……私の手料理」
と、投げやりに尋ねる。すると、ダリウスは口元を緩め、指でクイッとリリスの顎を持ち上げて自分の方へと視線を戻させた。そして──。
「うまかった」
やさしく響いた声。ダリウスからのその一言が、これまで聞いたどの言葉よりもリリスの胸をギュッと締めつけた。
リリスが、そっとダリウスの服を掴む。アッシュグレーの瞳と目が合えば、心が温かく、満たされていくような気持ちになった。気づけば顔には笑顔が浮かび、「なら、よかったです」と、リリスは嬉しそうに微笑んだ。
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