不思議な恋の悲しい夢

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 ビロードの上掛けをたくし上げる。触れた瞬間、太腿が大きく跳ねた。 「嫌だったか?」  自分でも驚くほど狼狽していた。上目遣いに見ると、アイ―ダは揺り椅子にもたせかけた体をわずかに左に傾けて、首を振った。 「ちがうよ。ただちょっと……冷たいのにまだ慣れないから、びっくりしただけ」  アイーダはのんびりと、しかしじゅうぶんに言葉を選んでいった。気遣いはありがたかったが、それでもやはり、鼓動を持たない心臓が痛んだ。ぎこちない笑みを浮かべて、手を離した。 「あたたかいのには慣れている?」 「想像に任せるよ」  バルコニーは涼しい風が吹いていた。窓際に置いた蓄音機が、美しいボレロのメロディを吐き出していた。  緩く綻ばせた唇を触れ合わせる。控えめに差し込まれる舌ははっとするほどに熱く、強い生命力を感じさせた。 「アイーダ!」  揺り椅子を軋ませて絡み合う。とたんに、はかったような怒鳴り声が、階下から響いた。 「メシの時間だぞ。降りてこい」  舌打ちをするヴァルジネの唇にもう一度軽くキスして、アイーダは立ち上がった。  幅の広い階段を下りると、マローンが腕を組んで待ち構えていた。黒のサテンのツーピースが、バランスの取れた体躯を見事に引き立てていた。 「なにをしていた?」  マローンの銀色の目が鋭く光る。ヴァルジネは視線をはずしたが、アイーダは平然としていた。 「話をしていただけだよ」 「本当か?」 「本当だよ。夕食は一緒に食べられる?」 「いつもどおりだよ。アイーダ、おまえはそっちだ。おれたちは」 「外食」 「そういうこと。ほら」  マローンに促されて、アイーダは大きなテーブルにひとりでついた。食事をはじめるアイーダの横で、ヴァルジネとマローンは外套を羽織り、素早く身支度を整えた。それを眺めながら、アイーダはつまらなさそうに、無造作な手つきで料理に取り掛かった。  羊肉にナイフが入って、血が皿を汚す。その光景が、ヴァルジネの目にやけに生々しく映った。 「ひとりの食事はつまらないよ」 「我儘をいうな。おまえを晩飯にしてもいいんだぞ」  マローンが両手を挙げ、歯を剥き出して、威嚇のポーズを取る。アイーダはふざけて身を竦めたが、ヴァルジネには笑えなかった。 「やめろよ、マローン」 「わかったよ。行くぞ」 「行ってらっしゃい」  アイーダがナイフとフォークを置いて手を振る。 「気をつけて」  ふたりがなにをしにいくのか、わかっているはずなのに、アイーダは屈託がなかった。返す言葉が見つからずに、ヴァルジネは曖昧に頷いてみせた。  金色の巻き毛を夜光虫のように散らせて、マローンがのけぞった。目を閉じたまま全身を軽く痙攣させ、それが終わると、今度は深いため息をついた。牙を濡らす血を舌先で絡めとる。  マローンが立ち上がると、同時に膝にもたれかかっていた少女が、カーペットの上にくず折れた。ひとめ見ただけで、すでに息がないのがわかる。白い首すじに浮いた2つの穴を直視することができずに、ヴァルジネは俯いた。 「どうした、ヴァルジネ」  上着の皺を伸ばしながら、マローンが声をかける。穏やかななかにも、厳しさのある口調。 「食わないなら、おれがもらうぞ」 「どうぞ」 「ヴァルジネ」  腕の中で気を失った少年の体を差し出したが、マローンは首を振っただけだった。 「昨日も食わなかっただろう。いい加減にしないと、飢え死ぬぞ」 「いい、それでも」 「おれとアイーダをふたりにしてもか」  ヴァルジネは顔を上げた。にらみつけられても、マローンは眉ひとつ動かさなかった。顎をしゃくって促した。 「食えよ」  ため息。ヴァルジネは緩慢な動きで口を開けた。鋭く尖った牙を唾液が滑り落ち、小さな雫になって、少年のブラウスの胸元に落ちた。  わずかなうめき声とともに、少年が目を覚ました。次の瞬間、絹を裂くような悲鳴を上げた。眠ったままでいればよかったのにと、マローンは漠然と思った。  屋敷に戻ってきた頃には、くたくたになっていた。外套の背中をマローンが強く叩いたので、ようやく疲弊しきった表情を顔から消す作業を思い出した。だが、繕う必要はなかった。アイーダはリヴィングのソファに横になって、ぐっすりと眠っていたからだ。 「ヴァンパイアの屋敷で、よくもまあこれほど無防備に眠れるもんだ」  マローンが心底感嘆するようにいったので、ヴァルジネは思わず噴き出してしまった。外界に出たこの数時間の間には、一度も見せたことのない笑みだった。  ヴァルジネは外套を脱ぎ、アイーダの肩にかけてやった。アイーダは規則正しい寝息を立て、起きる様子もない。 「ライオンの群れに子猫を放り込むと、どうなると思う?」  唐突な問いに、マローンは肩を竦めた。 「さあ……食われる?」  アイーダの寝顔に視線を落としたまま、ヴァルジネは首を振る。 「育てようとするんだ。敵から守り、乳まで与える」 「不思議なもんだな」  マローンは唇を尖らせて頷いた。 「だけど、おれたちはライオンじゃないぞ」 「わかってる」 「嘘つけ」  マローンは大股にヴァルジネに近づくと、折り襟をつかんで、無理矢理振り向かせた。エメラルドのブローチが弾け飛んだ。 「いつまでこんなこと続けるつもりだ」 「アイーダはおれのものだよ。マローンがくれたんだろ」 「おれがやったのは食物だ。ペットじゃない」 「アイーダはそのどちらでもないよ」 「ヴァルジネ、おまえ……」  マローンが言葉を切る。ソファの上でアイーダが身じろぎ、ふたりは一瞬息を殺した。しかし、アイーダは鼻にかかったような寝息を漏らしただけで、目を覚ますことはなかった。 「アイーダのいるところで、そんな話はしないでくれ」  ほっと息をついて、ヴァルジネは外套の上からアイーダの胸を撫でた。それを眺めながら、マローンは渋面を作った。 「聞けよ、ヴァルジネ。もう時間がない」 「時間って?」 「元老院に知られた」  ヴァルジネは無言だった。アイーダの寝顔から視線をはずさなかった。 「餌でもない人間をそばに置くのは、規則違反だ。いく晩と待たずに、使いが来るぞ」 「それなら、アイーダを家に帰そう」 「だめだ。アイーダはここを知ってる。おれたちのことも。すぐに人間が押しかけてくるぞ」 「ここを捨てて逃げればいい」 「アイーダはおれたちを知ってるといっただろう。ヴァンパイアがどうやって人間を襲うか、なにがヴァンパイアを殺すか、全部知ってしまった。生かしておくわけにはいかないんだよ」 「マローン、お願いだ」 「やめろ」  マローンは表情を歪め、目を逸らした。 「3日待ってやる。それまでに、アイーダを殺すんだ。じゃなきゃ、おれがやるぞ。わかったな」  外套を翻して、マローンは出て行ってしまった。ヴァルジネは途方に暮れて、アイーダの指を握った。アイーダがこの屋敷にきた8日前の夜に、思いを馳せた。  その夜、ヴァルジネは前日の食事であたってしまい、臥せっていた。獲物に選んだ少年が、阿片を服用していたのだ。気づかずに血を吸ってしまったせいで、腹を下してしまった。  狩りに出ることができなくなってしまったヴァルジネの代わりに、マローンが獲物を取りに行った。 「どうだ。おまえ好みだろ」  得意げなマローンが放ってよこしたのは、のんきな寝顔の男。ひとめ見て、ため息を漏らした。 「完璧」 「おれはもっと若いほうがいいけどな。血が汚れていなくってさ。悪くはないけど、ちょっと酒臭いな」  獲物の襟元に顔を寄せて、マローンは顔をしかめた。 「ちゃんと食って、寝るんだぞ」 「うん、ありがとう」  マローンが自分のぶんの餌を抱えて部屋を出て行くと、ヴァルジネは土産ものをソファに寝かせて、見下ろした。  見るからに高価そうなビロードの上っ張り。首に引っ掛かったスカーフの綻びを、ヴァルジネは丁寧に整えた。夜風に乾かされた肌を、伸びた爪の先で撫でる。とたんに、獲物は眉を寄せた。目を擦って、ゆっくりと開いた。  ヴァルジネと視線が合うと、アイーダは不思議そうに首を傾げた。 「……ここはどこ?」  恐怖に慄いている様子は見られなかった。しきりに瞼を擦って考え込むと、アイーダは思い当たったかのように、間延びした声を上げた。 「森にいたはずなんだけど」 「森でなにをしていたの」 「狩り……そうか、ぼくが狩られちゃったんだ」  アイーダは照れくさそうに笑った。 「ヴァンパイア?」 「そう見えるなら、そうだね」  それを聞いて、アイーダははじめて表情を歪めた。 「ぼくの血を吸うの」 「いただくつもりでいるよ」 「嫌だっていっても?」  笑ってしまった。状況を把握できていないわけではないだろうが、些か緊張感というものに欠けているようだ。 「申し訳ないけど」  アイーダは肩を竦めた。投げ槍になっているようには見えなかったが、かといって逃亡の機会を狙っているわけでもなさそうだった。無関心に首を振って、ソファの肘掛に頭を乗せた。 「血を吸われるのって、どんな感じかな。痛い?」 「まあ、ちょっとはね」  それを聞いたアイーダは、泣きそうな顔をした。懇願するように、ヴァルジネを見上げた。 「じゃ、寝てる間にしてくれる。だめなんだ、痛いの」 「いいよ」  いわれたとおりにしてやる道理はなかったが、考えるより先に頷いていた。 「じゃあ、寝たら教えるから」 「どうやって」 「あ、そうか。じゃあ、声かけてみて。返事しなかったら、寝てるから」 「わかった」 「アイーダ。ぼくの名前だから。そう呼んで」 「呼ぶよ」 「ありがとう。じゃ、おやすみ」  そういうと、アイーダは一切の躊躇なく、目を瞑った。数分とたたぬうちに、寝息が聞こえてきた。 「アイーダ」  まさかと思いながらも、ヴァルジネはいわれたように声をかけてみた。返事はなかった。  唖然としながら、ヴァルジネは眠りを貪るアイーダを見つめた。すぐ隣で吸血鬼が涎を垂らしているというのに、本当に寝入ってしまったのだ。 「アイーダ」  返事はない。幸せそうに、アイーダは眠っていた。  起こさないように注意しながら、ヴァルジネはアイーダの上に覆いかぶさった。剥き出しの喉に歯を立てようとして、しかし、無意識のうちに、軌道修正していた。  唇に熱を感じたとたんに、頭を殴られた。  ぱっと目を開けたアイーダににらみつけられ、ヴァルジネは狼狽した。 「血を吸ってもいいとはいったけど、キスされるとは聞いていない」  怒ったようにアイーダはいったが、表情に怒気は含まれていなかった。そのことにヴァルジネは安堵し、そんな自分に驚愕していた。 「……ごめんなさい」  口が勝手に動いた。牙をしまうのも忘れて、ヴァルジネは呆然とカーペットの上にへたりこんだ。  こめかみに熱。顔を上げると、アイーダが微笑していた。 「こんなところで寝て、朝になっちゃったらどうするんだ」 「寝ちゃいないよ」 「じゃあ落ち込んでた? ぼくを殺さないといけないから?」  ヴァルジネは上目遣いにアイーダを見た。アイーダが目を覚ましているのに気づかないほど、うろたえてしまったことを恥じた。  しかし、マローンまで失念していたとは。いや、違う。  マローンはわざとアイーダに聞こえるように話したのだ。アイーダが自ら逃げ出すように。ヴァルジネは唇を噛んだ。 「いいよ、殺して」  ヴァルジネの強張った顎を指先で撫でて、アイーダはいった。 「この何日か、楽しかったから。本当なら、最初の夜に死んでいたはずなのに、時間をくれて感謝してる。でも、もういいよ」 「なにをいうかと思ったら」  ヴァルジネはぎこちない笑顔を作ってみせた。 「心配することはない。きみを殺す気はないから。そんなことはだれにもさせない」 「そんなのだめだよ。ぼくがいると、困ったことになるんだろ」  ヴァルジネは咄嗟にアイーダの手を握りしめた。穏やかに笑うアイーダの指先がかすかにふるえているのに気づくと、胸が締めつけられた。 「一緒に逃げよう、アイーダ」  アイーダは驚いたように目を見開いて、しかしすぐに首を振った。 「無理だ。マローンがゆるさないよ」 「関係ないよ」 「マローンをひとりにしちゃだめだ。それに」  アイーダが手を握り返してくる。額同士を押しつけあって、悲しげに囁いた。 「ぼくは人間だから。すぐにおじいさんになって、死んじゃうよ。きみを置いていなくなっちゃうんだよ。それでもいい? 我慢できる?」  老いさらばえ、死んでいくアイーダの乾涸びた姿。にわかには想像しがたい。それでも、心が曇った。 「でも、ありがとう。気持ちは嬉しかった、すごく」  俯くヴァルジネの頭を軽く叩いて、アイーダは微笑んだ。 「最後にお願いがあるんだけど」  ヴァルジネは顔を上げた。  アイーダの細い指が、薄いレースのカーテンを分けた。窓のそばに立って様子を伺っているヴァルジネの目にも、瞼の閉じられた横顔が見えた。  アイーダがベッドに近づいたときだった。眠っていたはずのラウルが、ぱっと覚醒した。手にはトルコ石の飾りがついた短剣。鋭い刃先がアイーダに向けられるよりも先に、ヴァルジネが動いた。  風の音とともに、アイーダの影がなくなると、ラウルは飛び上がって、カーテンを引いた。そのままの態勢で、硬直した。 「兄さん……」  部屋の隅。ヴァルジネの光る緑色の目と、その外套の影に半身を隠したアイーダを素早く見ると、ラウルは短剣を構えた。 「この化物。兄さんを離せ」  ヴァルジネが身構えようとするのを、アイーダは鋭い視線で制した。ヴァルジネの手をすり抜け、顔面蒼白のラウルに歩み寄る。 「そんなもん、しまえって。だいじょうぶだから」  ラウルは油断のない目でヴァルジネをにらんでいたが、アイーダの手がナイフの柄にかかると、素直に刃先を下ろした。恐る恐る、アイーダを見つめる。 「兄さん……ほんとに兄さんか?」 「あたりまえだろ」  アイーダが微笑する。ラウルは言葉も出ないといった感じだった。縋るように、アイーダの体を抱きしめた。  首をもたげる嫉妬心を押さえ込んで、ヴァルジネはさりげなく視線を逸らした。 「心配かけてごめん」 「本当だよ。一体どうなってんだ。何日も行方不明かと思ったら、あれ……」  ラウルの視線が再び吸血鬼を捕らえる。ヴァルジネは軽く膝を曲げてお辞儀をしてみせた。 「あれはヴァンパイアだろ。なんでヴァンパイアと一緒にいるんだ。説明してくれ」 「うーん、話せば長くなるんだ」  アイーダは困ったような苦笑いを浮かべた。  ヴァルジネは窓の外に目をやった。月の高さを確かめる。マローンはまだ起きてはこないだろう。だが、まだ街中には人間の姿も多い。のんびりしてはいられなかった。 「アイーダ」 「わかってる。な、ラウル」  困惑を隠しきれないといった顔のラウルを見つめて、アイーダはいった。 「今日は、お別れをいいにきたんだ」  口を開きかけるラウルを遮って、アイーダは続けた。 「いいんだよ。ぼくもちゃんと納得してのことなんだから。ただ、最後に、おまえの顔を見ておきたくて、ヴァルジネに頼んだんだ」 「兄さん……」 「父さんと母さんのこと、よろしく頼むよ。元気でな」  ラウルの額にキスすると、アイーダは踵を返した。その腕を、ラウルがつかむ。 「だめだ、兄さん、行っちゃだめだ」 「離せ」  ヴァルジネが進み出るのを、アイーダは止めた。ラウルを見つめ、諭すようにいう。 「行かなきゃ。わかるだろ」 「わからないよ。なにもわからない。やっとうちに帰ってきたっていうのに、なんでまた行かなくちゃいけないんだ。しかも、もう戻ってこないつもりでいる」 「そうだよ」 「そんなの、ゆるせるわけないよ」  圧し殺したように叫ぶと、ラウルはアイーダを自分の後ろに隠すようにして、ヴァルジネに向けて短剣を突きつけた。 「馬鹿。なにやってるんだ」 「兄さんを護る」 「無駄だよ。やめろ」 「無駄かどうか、やってみなきゃわからない」  ヴァルジネは欠伸を噛み殺した。ラウルの短剣が閃く。一瞬早く、飛び上がった。空中で体を反転させ、アイーダの背後にゆっくりと着地する。  ラウルはつんのめった姿勢のまま、ヴァルジネに肩を抱かれて窓枠を越えようとするアイーダを見つめた。 「兄さん!」 「だいじょうぶだから」  ラウルが駆け寄ってくるのを待たずに、ヴァルジネはアイーダを抱いて宙に身を投げた。 「ナーバスになってるね」  アイーダは力なく笑った。曖昧に首を傾げて頷く。 「会いに行ったりするんじゃなかったかもしれない。我儘きいてもらったのに、なんだけどさ」 「構わない。おれも、アイーダの弟に会えてよかった」 「悪い奴じゃないんだ」 「わかってる。いきなりヴァンパイアが目の前に現れて家族を連れ去ったら、だれだってナイフを持つさ」 「……」 「アイーダ」 「キスしてくれないか」 「……いいよ、もちろん」  屋敷の灯りを遠くに見ながら、唇を触れ合わせる。アイーダの歯がかすかにふるえるのに、ヴァルジネは気づいた。 「ありがとう」  ヴァルジネのブラウスの襟に額を押しつけて、アイーダはぎこちなく笑った。 「行こう。マローンが起きる」 「うん。先に行ってて」 「ヴァルジネは?」 「ちょっと用を思い出した。すぐ行くから」 「わかった」  もう一度、軽くキスをしてから、アイーダは屋敷に向かっていった。小さくなった肩が消えてしまうと、ヴァルジネはため息をついた。  振り向く。強烈な光が、ヴァルジネの目を突いた。身を翻した。ナイフが地面に落ちた。 「あとをつけたな」  芝の上に膝をつき、捻った手首を押さえながら、ラウルが顔を上げる。 「兄さんを返せよ」 「それはできない」 「兄さんの血を吸う気だろ」 「そんなことしない。でも、返してやるわけにもいかないんだ」 「力づくで奪い返す」 「やめたほうがいい。人間がヴァンパイアに勝てるわけないさ。アイーダも、そういったろ」  アイーダの名を出すべきではなかったかもしれない。ラウルが吠え、剣を抜いた。上半身をずらして、なんなくかわした。だが、避けた刃先から水滴が飛び散って、ヴァルジネははっとした。  外套を翻して盾にしたものの、数滴は間に合わずに、胸元に散った。焦げた匂いがして、ヴァルジネの白い首すじから煙が立ち上った。  ヴァルジネは低く叫び、咄嗟に手をかざした。掌からありったけの力を放出する。胸を押さえ、よろめく。かろうじて足を踏ん張ると、我に返った。  視線を戻す。ラウルは地面にうつ伏せに倒れていた。 「ああ、嘘だろう」  ヴァルジネはうわごとのように呟くと、よろけながらラウルに近づいた。外套の裾に泥がつくのにもかまわず、膝をついて、ラウルの体を抱え上げる。ヴァルジネの腕の中で、ラウルは身動きひとつしなかった。ぐったりと落ちた手から、聖水のまぶされた剣が滑り落ちた。  ラウルの死体を抱いたまま、ヴァルジネはしばらくの間動くことができなかった。  屋敷に戻ると、マローンとアイーダがサロンで待っていた。血のたっぷり注がれたワイングラスをすかして、マローンはヴァルジネを見た。 「なにもいわないでくれ」  ヴァルジネは溟い声でいった。視線を床に落として、首を振る。もちろん、マローンは聞き入れてはくれなかった。 「なにもいうなって? おれが寝ている間に勝手にアイーダを連れ出しといて、謝りもせずにどういういいぐさだ」 「ヴァルジネは悪くないよ、マローン。ぼくが無理に頼んだから」 「おまえは黙ってろ」 「ごめん。謝るよ。悪かった」  ヴァルジネはうなだれた。 「おまえにしては素直だな」 「ああ。ただし謝るのはこれから見せるものについてなんだ」  顔を上げることができなかった。マローンとアイーダが怪訝そうに顔を見合わせる。サロンに入ってきた影を見ると、ふたりの顔が強張った。 「まさか……おい、冗談だろ」  マローンが呆然と口ばしる。アイーダは血の気の引いた口元を押さえ、叫ぶのをこらえるのが精一杯のようだった。  ヴァルジネは目を逸らし続けた。カーペットの装飾の綻びをひたすら見つめること以外、なにもできなかった。  うなるような声とともに、マローンが立ち上がった。掌を閃かせると、ヴァルジネの体は宙に浮き、壁に叩きつけられた。 「どこまで愚かなんだ、おまえは。自分がなにをしたか、わかっているのか!」  ヴァルジネの体が再び浮遊する。怒りを帯びた、絶対的な力。逆らうことはできなかった。する気もなかった。さらに激しく壁に激突して、ヴァルジネは呻いた。 「やめろよ、マローン!」  耐えかねたように、アイーダが叫ぶ。 「なにを怒っているんだよ、兄さん」  その場の雰囲気にはそぐわない、間延びした声。だれもが口を閉じた。ラウルは戸惑ったように肩を竦めた。 「おれなら平気だよ。すごくいい気分だ。これで、兄さんを護れるしね」  ラウルの視線を受け止めることができずに、アイーダは青褪めた顔を伏せた。不穏な空気に、ラウルは眉を寄せた。きょとんと見開かれた丸い瞳は、紫色に光っていた。  マローンが舌打ちした。血にまみれたラウルの服の肩をひっつかむと、強引に引っ張った。 「なに」 「いいからこい。もうすぐ夜が明ける。急いで体に合った棺桶を用意しないと、灰になっちまうぞ」  うろたえるラウルを連れて、マローンは階段を上った。床にへたり込んで動けずにいるヴァルジネを冷ややかに一瞥したが、なにもいわなかった。  サロンにアイーダとふたり取り残されるのは、ヴァルジネにとってなによりもつらいことだった。しかし、逃げることはできなかった。  アイーダは呆然と立ち尽くしていた。視線を合わせられなかった。床に肘を立て、なんとか上半身を起こした。痛みはそれほどでもなかったが、なによりも絶望感が、ヴァルジネの体から力を奪っていた。 「いきなり斬りつけられて……聖水が体にかかって、混乱したんだ。咄嗟のことで、つい加減できなかった」 「やめろ。聞きたくない」  アイーダの声は強張り、ふるえていた。口を閉じるしかなかった。顔を上げた。とたんに、後悔した。アイーダは侮蔑に満ちた目でヴァルジネを見下ろした。 「殺すのはぼくのはずだろ。あいつはなにも知らないし、なにもしてないのに……」 「違うんだ、アイーダ……」 「いいわけはいい」  アイーダの言葉は冷たかった。胸が切り裂かれるように痛んで、ヴァルジネは表情を歪めた。 「やっぱりおまえは化物だ。ちょっとでも心があるなんて思ったぼくが馬鹿だった」  搾り出すように叫ぶと、アイーダは踵を返し、走り去ってしまった。  寒々としたサロンの空気に、ヴァルジネは思わず胴震いした。  次の日の夜。アイーダは部屋を出てこようとしなかった。マローンはヴァルジネを徹底的に無視した。それを気にする余裕は、すでにヴァルジネにはなかった。老人のように、窓の外に目を向けたまま、じっとしているだけだった。  ラウルだけが、機嫌がよかった。人間の体では到底感じることのできない、研ぎ澄まされた感覚、圧倒的なパワーに、酔いしれていた。  スパンコールのあしらわれたベレー帽。マローンの手をすり抜け、宙を浮遊した。ため息とともに、マローンは振り向いた。 「やめろ、馬鹿」 「ごめん。面白くって、つい」  ラウルは悪びれもせずにいった。指を蠢かせ帽子を操り、マローンの頭の上に着地させる。外套代わりにシーツを肩に羽織って、くるりと一回転してみせた。 「ヴァンパイアも捨てたもんじゃない。なあ、そう思うだろ、マローン」 「よけいなこといってないで、行くぞ」 「どこに」 「メシだよ」  マローンは短く答えた。ベレー帽のつばの影で、銀色の目が鈍く光った。ラウルの顔から、笑みが消えた。 「帰ってくる頃にも同じことをいうかどうか、楽しみだな」  控えめな足音。気づいてはいたが、ヴァルジネは振り向かなかった。昨夜、アイーダの顔に浮かんだあの憎々しげな表情。あれをもう一度見てしまったら、今度こそきっと、自分は死んでしまうだろうと思った。  しかし、アイーダはヴァルジネを罵倒しようとはしなかった。ヴァルジネの座る揺り椅子のそばまでくると、カーペットの上に足を投げ出して座った。 「昨日はごめん」  ヴァルジネは答えなかった。答える力も残っていなかったといったほうが正しいかもしれない。  憔悴しきった様子のヴァルジネを見て、アイーダは唇を噛んだ。 「ひどいことをいってしまったって後悔してる。ヴァルジネはわざとやったんじゃないのに」 「いいんだ」  消え入りそうな声で、ヴァルジネは答えた。窓に向けたままの目を細めて、笑顔を作ってみせた。 「アイーダを悲しませちゃいけないと思ったら、ラウルの死体の口に血を流し込んでいた。そんなことはすべきじゃなかった。怒るのは当然だよ」 「そんなことは」 「いや、本当だ。おれが眠ってる間に、杭を打ってくれても構わなかった」 「やめろよ」  アイーダはヴァルジネをにらみつけた。 「冗談でもそんなこというな」 「ごめん」  ヴァルジネは素直に謝った。アイーダは深い息をついた。 「あいつの命を助けてくれて、ありがとう」  ヴァルジネは苦しげに顔を歪めた。 「死んだほうが楽だったかもしれない」 「そんなことはないよ」  アイーダは即座に否定したが、言葉に力はなかった。  重いドアが烈しく開かれ、サロンの沈黙をやぶった。ラウルが大股に入ってくるのを見て、アイーダは立ち上がった。 「おかえり」  アイーダの視線はラウルの強張った顔の上で止まり、顔からは笑みがかき消えた。 「だいじょうぶか」 「触らないでくれ」  ラウルは頑なだった。アイーダの手を避けて顔を背けると、逃げるように階段を駆け上がっていった。 「気にするな」  アイーダが振り向く。マローンはベレー帽の埃を無造作に手で払った。 「最初の狩りのときは、だれでもああなるさ。あいつも、そうだった」  マローンの視線の先。ヴァルジネが俯く。アイーダは体の芯から凍えるような寒気をおぼえて、自分の両腕で自分を抱いた。  そのときだった。突然、マローンの腕が撓った。銀の指輪がいくつも巻きついた手に喉を圧迫され、アイーダは目を剥いた。しゃくりあげるようなかすかな悲鳴とともに、ブーツの爪先が床を離れる。 「マローン!」  ヴァルジネのほうを見もせずに、マローンはもう片方の手を振り上げた。立ち上がりかけたヴァルジネの体が、見えない糸に拘束されたかのように、揺り椅子に押しつけられる。  ヴァルジネを押さえつけたまま、マローンはアイーダの喉を絞め上げる手に力を込めた。アイーダの顔が苦しげに歪む。 「なにするんだよ、マローン!」  ヴァルジネは叫んだ。血の気を失っていくアイーダの顔から、目が離せなかった。必死にもがくが、マローンの力にはかなわない。 「やめろよ。やめてくれ!」 「おれだって、アイーダを殺したくなんかない。でも、このままじゃ、おれたち全員破滅だぞ」 「約束は明日の夜のはずだぞ!」 「おまえにやれるわけねえよ」  ヴァルジネには反論することができなかった。かといって、アイーダがマローンの手にかかるのを黙って見ているわけにもいかない。咄嗟に、叫んだ。 「ラウル、こっちにきてくれ!」 「やめろ、ヴァルジネ!」  黙ってされるがままになっていたアイーダが、声を上げた。必死に首を曲げて、ヴァルジネをにらむ。 「兄が殺されるところを見せるな!」  マローンの手が緩む。見逃さなかった。揺り椅子の肘掛に縛りつけられた腕をわずかに振動させて、ヴァルジネは力をほとばしらせた。  感電のような音を立てて、マローンの手が火花を散らす。マローンは思わず手を引き、支えを失ったアイーダの体は、床に落下した。 「アイーダ!」  暖炉の中の灰に突っ込まれていた火かき棒が浮き上がった。不意を衝かれたマローンの力はやや弱まってはいたが、それでも、今にも立ち上がれそうなヴァルジネの肩に向けて、火かき棒を飛ばすだけのことは簡単だった。  火かき棒の突き立ったヴァルジネの肩から鮮血が噴き出すのを見て、アイーダは愕然とした。だが、他人の心配をしてる暇はなかった。マローンが馬乗りになってきて、胸を圧迫されたアイーダは烈しく噎せた。 「これだけはわかってくれ、アイーダ」  息を乱しながら、マローンはいった。 「おれだって、おまえが好きだ。もし、同じ生き物として出会っていたら、いい友達になれたはずだと思っている」 「ぼくも……ぼくもそう思うよ」 「もし、おれが森でおまえを見つけなかったら……」 「そんなこというなよ」  アイーダは微笑んだ。アイーダの喉に食らいつこうと牙を剥いたマローンの顔は、ヴァルジネやラウルよりもさらに苦しげで、見てはいられなかった。 「楽しかった。感謝しているよ」  アイーダの指が、マローンの巻き毛に絡む。促されるままにマローンが頷くと、アイーダは満足げに笑った。 「ありがとう。めちゃくちゃにしちゃってごめん」  マローンは目を閉じ、開いた。硝子玉のような瞳が、鈍く輝いた。押さえつけたアイーダの喉に、マローンは噛みついた。 「兄さん!」  マローンが顔を上げる。階段の上から、ラウルが力を放出させようとしていた。渦を巻いて襲ってくる風圧を、マローンは腕だけでなんなく交わした。強力なパワーを孕んだ光が軌道を変え、天井にはじけ飛ぶ。 「危ない!」  ヴァルジネが叫び、マローンははっとした。頭上のシャンデリアが、眼前に迫っていた。  ドアを開けると、待ち構えていたように、アイーダが顔を上げた。 「マローンは?」 「だいじょうぶ。傷はだいたい塞いだよ」 「本当に?」 「心配ないよ。手当てしている間に、ラウルが餌を取ってきてくれて、その血で、なんとか」  アイーダが青褪めるのを見て、ヴァルジネは慌てて口を閉じた。 「相応しい話じゃなかったな」 「ラウルが人間をつかまえてきた?」  独白のようなアイーダの質問に、躊躇いながらも、ヴァルジネは頷いた。 「マローンの怪我に、責任を感じているんだよ。とはいっても、これで食事に問題はなくなった」 「ヴァルジネは?」 「おれ?」 「ちゃんと食事してる? 最近、痩せたみたいだよ」  ヴァルジネは曖昧に微笑んでみせたが、アイーダの表情は硬く強張ったまま、緩むことがなかった。 「マローンひとりなら、シャンデリアを避けるのなんて、簡単だった。ぼくのせいだ。ラウルがヴァンパイアになったのも、ヴァルジネが血を吸えなくなったのも全部」 「……アイーダ」  ヴァルジネはアイーダを促してベッドに座らせると、その隣に腰かけて、手を握ってやった。 「あのふたりはだいじょうぶ。今は棺桶に入って眠ってるよ。明日にはなにもかもよくなってるはずだ」  アイーダは俯き、なにかを考えているようだった。白い顔に笑顔が戻ることはない。 「おれも寝なくちゃ。うかうかしていると、朝がきてしまう」  つとめて軽い調子でいうと、ヴァルジネは首を伸ばして、アイーダのこめかみにキスした。 「おやすみ、アイーダ」 「……おやすみ」  静かに、寝室の扉は閉まった。  深い眠り。インクを撒いたような闇が捩れ、歪み、揺らめいた。  屋敷内に危険が及ぶことは皆無に近い。眠りの途中で覚醒するなどという経験もなかった。不審に思い、目を開けた。  慣れた棺の中はいつもとまったく同じで、しかし全然ちがっていた。ヴァルジネは息を呑んで、硬直した。 「黙って……」  耳元に湿度の高い息が注ぎ込まれる。おまけに、ああ、なんてこった、触れたことのないような熱さだ。こんな熱さに触れたのは、はじめてだった。ヴァルジネは我を失いかけていることに気づいていたが、どうにもならなかった。 「なにしてるんだ」  そう聞くのが精一杯だった。ヴァルジネの体の上に重なるようにして横たわったアイーダの体が細かく震えた。笑ったように思えたのは、気のせいだったかもしれない。 「ひとり乗りだぞ」  今度こそ、確かにアイーダは楽しげに笑った。冗談のつもりではなかった。そんなことをしている場合ではない。 「ふざけるのはやめて、頼むから、出て行ってくれ」 「きっともう日が昇ってる。今蓋を開けたら死んじゃうよ」  アイーダの指先が、ヴァルジネの絹モスリンのスカーフを静かに引っ張った。このままアイーダの指に首を絞められ、殺されてしまうのではないかという、とりとめのない妄想がたゆたった。だが、実際にはもっとひどかった。つまり、スカーフを差し置いて服の中に侵入してきた手に、胸元を愛撫されたのだ。 「なんのつもりなんだよ」  泣き出しそうな声だった。アイーダは手を止め、身じろいだ。ひとり用の棺は狭く、体の向きを変えることすら、至難の技だった。 「お願いがあって」  触れるか触れないかの位置で、アイーダの唇が振動する。口調に波はなかったが、切迫しているのが痛いほどわかった。 「ふたつ。聞いてくれる?」 「……いってみて。叶えてあげられるかどうかはべつだけど」 「きっと叶えてくれるよ」 「いいから、いってみて」  囁き声だけの会話。アイーダは小さく息をついて、いった。 「ひとつは、ぼくを好きなようにしてくれること。もちろん、最後まで。もうひとつは、そのあとでぼくをヴァンパイアにしてくれること」 「……」 「なんで黙ってる?」 「なんていっていいか……」 「簡単だよ。OK。それから、そのとおりにすればいい」 「そんなことはできないよ」 「どうして」 「どうして?」  ヴァルジネは途方に暮れてため息を漏らした。 「こっちが聞きたいよ。なんだってそんなことをいうんだ。ヴァンパイアがどんなものかとっくにわかってるくせに」 「しっ」  アイーダの人差し指が、ヴァルジネの唇にあてられる。温めの体温を持つ指先は、そのまま唇を割って口中に侵入し、鋭く尖った犬歯の先に触れた。 「どうしてヴァンパイアになりたいなんて」  必死に気を鎮めながら、ヴァルジネは問いかける。 「ラウルのため?」 「そうだね。あいつのそばにいなくちゃね。でも、ぼくがすべてともにしたいのはきみだよ」  冷えきった鎖骨の窪みに頭を乗せて、アイーダは呟いた。 「きみとふたりでどこかに行きたい。でもマローンをひとりにはさせられないしラウルのことも心配だ。だから」 「だからヴァンパイアになるのか。そんなのだめだ」  圧し殺した叫び。ヴァルジネは組んだ両腕を解いて、アイーダを抱きしめた。 「きみはわかっていない。ヴァンパイアになるっていうのがどういうことか」 「わかってる」 「ラウルを見ただろう。あんなふうになるんだぞ。人間を手にかけて、その血を吸わないと生きていけないんだぞ。だれかを好きになることもできないんだぞ」 「じゃ、なんでぼくを好きになったの」 「勘弁してくれ」 「だめ」  無理な体勢で絡み合ったまま、アイーダは冷たくいい放った。 「どうして、あの夜、おれを殺さなかったの。家畜みたいに飼いならして。まるで食用の豚だ」 「やめてくれ。頼むから、そんなふうにいうな」 「おれの頼みを聞き入れるべきだよ。ヴァルジネには、その義務があるんだから」 「できない。おれにはできない、そんなこと」 「できるよ。やらなきゃだめだ。すべての責任はおれたちふたりにある。決着をつけなくちゃ」 「ゆるしてくれ」 「ゆるせない」  低く呟くと、アイーダはヴァルジネの鎖骨の上の薄い皮膚を噛んだ。緩慢な痛みが走る。 「もしどうしても拒むならそれでもいい」  アイーダは体を滑らせて、ヴァルジネの首すじから胸元までを愛撫する。胸骨に沿って移動する唇がアイーダの言葉に呼応するように振動して、ヴァルジネを煽りたてる。 「でも、ふたつのうちすくなくともひとつは、自分で叶えることができるんだよ」 「どういうこと?」 「自殺する」  ヴァルジネが凍りつく。アイーダは頓着することなく、無表情にいった。 「目が覚めてぼくが死んでたらどうする? 血を飲ませるんじゃない?」 「見くびらないでくれよ。そんなことしない」 「じゃ、ぼくを死なせる? ぼくがいなくなっても生きていける?」  アイーダなしで、それでも終わりのこない永遠の生。想像する。絶望に支配される。白旗に手がかかる。こらえる。誘導されてはいけない。 「それだけ自信があるんだったら、最初からそうすればいい。おれがアイーダを失って生きられないってわかってるんなら、ヴァンパイアにしてくれなんて、そんなことおれに頼んでも無駄だってことも、当然わかるはずだろう」 「そうだけど、もうひとつのほうも、やっぱり捨てられなかったから」 「体を繋げることに、今更なんの意味があるんだよ」 「意味なんかないよ。ただ、そうしたいだけ……」  アイーダのしなやかな足が、ヴァルジネの下腹の周囲を蠢く。内腿を掠める指先に、ヴァルジネは息を呑んだ。湧き上がってくる欲望を、必死に抑え込む。  無意識に体を起こそうとしたとたん、棺の蓋ががたんと音を立てた。ぎくりとする。叫ぶようにいう。 「もし、仮に、願いを聞き入れるとしても」  アイーダの手が離れる。 「順番は逆だ」 「順番」 「つまり、こう。セックスはヴァンパイアになったあと」 「そんなのだめだよ」 「なあ、頼むからちょっとは歩み寄ってくれ」  げんなりとしながら、ヴァルジネは懇願した。 「人間とヴァンパイアの体は違いすぎる。どうなるかわからないよ。もしきみの体になにかあったら」 「人間とそういうことになったことないの」 「あるよ」 「そのときはどうなった?」 「……終わってすぐに殺してしまうからわからない」 「けだもの」 「おれをいじめても、なんにもならないんだぞ」 「わかってるよ。いじめてるつもりなんてない」  深いため息が、ヴァルジネの鼻先を掠める。 「でも、ぼくも譲れないんだよ」 「どうして人間のままでなくちゃいけないんだ」  ヴァルジネの問いに、アイーダははじめて返答に詰まった。下唇に歯を立てて、呻くようにいった。 「後悔してるから」  これほど密着していなかったならば、きっと聞き取れなかっただろう、小さな声。ヴァルジネは戸惑った。 「後悔ってなにを」 「わかってるはずだよ。あれから一度も自分からぼくに触ろうとしない」  いうべき言葉を見失ったヴァルジネは、せめて表情だけでも取り繕おうと、ぎこちない笑みを浮かべた。そこでようやく、思い出した。闇に埋め尽くされた棺の中では、吸血鬼のヴァルジネにアイーダの顔を見ることはできても、アイーダの目にはなにも見えないのだということ。  目だけではない。さっきから、わずかな風の音が煩わしく棺桶を叩き、甘美な囁きあいの邪魔をしていることにも、アイーダはきっと気づいていない。違う生き物であるということを、痛いほど認めさせられる。 「つめたい」  アイーダの手が、ヴァルジネの胸を行き来する。ヴァンパイアには体温もない。アイーダは我慢してくれるが、指先が触れる瞬間、驚いたように数度体を震わせる。そのときの顔を見るのがつらかった。 「ぼくの熱を分けてあげる。だから、代わりに、血をくれよ。ぼくをヴァンパイアに……」  目を瞑った。開いた。暗闇で虚ろに揺らめくアイーダの黒い瞳。 「わかったよ、アイーダ」  ため息とともに言葉を吐き出す。アイーダが首をもたげる。 「降参だ。やっぱり、きみには勝てないみたい」  アイーダは嬉しそうに笑った。暗闇の中、その笑顔だけが、眩しく輝いて見えた。  アイーダは汗ばんでいた。耳をうつ鼓動が早く、不規則になっていた。  そしてヴァルジネもまた、昂ぶっていた。ただし、アイーダとは異なり、身体的反応はごく薄い。ヴァンパイアとしての感覚は研ぎ澄まされているが、体温や体臭といったいわゆる生理的なものは、ほぼ皆無に等しかった。そのことに、ヴァルジネは苛立ち、ひどく卑屈な気分になった。そんな自分を庇護するように、とりわけ長く、深く、アイーダを愛した。  自分の無機質な体をもどかしく思えば思うほど、控えめに、だが大胆にのたうつアイーダの体が愛しく思えてくるのだった。  体を入れ替え、はたから見たら不毛にも見える一方的な奉仕を繰り返しているうちに、ヴァルジネのほうものっぴきならぬ状態になりはじめた。  のっぴきならぬ?  由緒正しきヴァンパイアの口からそんな間抜けな言葉が出てくるのを元老院の老爺どもが聞いたら、腰を抜かしてしまうかもしれない。ヴァルジネは唇の端を歪めた。 「なにがおかしいんだよ」  荒い息の間でアイーダが不機嫌そうにいったので、ヴァルジネは慄いた。 「見えるの」 「見えないよ、全然」  照れ隠しか、アイーダは悔しげに唇を尖らせた。 「ぼくにはなにも見えないのに、きみにはぼくの顔が見えてるなんてずるいよ」 「……」 「ヴァルジネ?」 「なんでもないよ。おれの顔を見てほしいって思っただけ」 「見たい」  アイーダは独白するようにいった。ヴァルジネは口を開きかけ、閉じた。なにを口ばしってしまうか、わからなかったからだ。同時に、切迫した。恐らく、いや、少なくともヴァンパイアになってからは間違いなくはじめてのことだった。こんなふうに欲望を制御しきれなくなってしまうのは。  先端が触れた瞬間、アイーダは体を弾ませた。 「痛い? それとも冷たかった?」 「両方……でも、だいじょうぶ。すぐ慣れる」  アイーダの眉間に深い皺が寄る。ヴァルジネの腰に絡んだ脚に、すじが通った。咄嗟に視線を向け、ヴァルジネは思わず喉を隆起させた。 「血が出てる」 「うん……」 「舐めたい?」 「うん」 「舐めていいよ」  ヴァルジネは恐る恐るアイーダの太腿に指を這わせた。指先を汚した赤を凝視する。 「舐めて」  アイーダの興奮が、伝わってくる。ヴァルジネは指先を口に含んだ。嘆息した。 「旨い?」 「たまらない」  アイーダが喉の奥で笑う。淫蕩な笑いだった。思わず体を震わせると、アイーダは苦しげな息を吐いた。 「だいじょうぶ? 痛みがひどいようなら」 「だいじょうぶだから。やめるなんていうなよ」 「悪かった。でも、つらかったら、すぐにいって」 「ありがとう……」  アイーダは声を殺した。鎖骨に顎を埋めるほどまでに俯いて、必死に耐えた。ゆっくりと、ヴァルジネは欲望を満たした。しばらくそのまま動かずに、アイーダの緊張がほぐれるのを待った。 「変な感じはしないか? なんていうか……なにか、違和感はない?」 「だいじょうぶ。いい気分だよ」 「ラウルと同じことをいわないでくれ。怖くなる」 「ごめん」  アイーダの手が、ヴァルジネの乾いた白い頬に触れた。指を重ねた。アイーダの手は、対照的にあたたかかった。少し落ち着いてきた顔も、わずかに上気している。 「きみは? どんな感じがするか教えて」 「あたたかいよ。すごくあたたかい」 「あたたかい?」 「うん。はじめてだ、こんなのは」  人間だったときの記憶。忘れかけていた感覚を、ヴァルジネは思い出していた。泣き喚きたい。衝動が蠢動する。 「すこし……動く」 「うん」  狭い棺の中で、確かめるような律動。死人のための箱の中、生命と結びつく行為に耽る矛盾。この感じはなんだろう。  おれは、なんだ。  ヴァルジネは口を開いた。アイーダが掠れた悲鳴を上げ、のけぞった。  剥き出しの喉に、ヴァルジネは思いきり噛みついた。尖った牙が肌を押し、裂いた。小さな穴から、生の証明が一気に噴き出してくる。ヴァルジネは熱にうかされたように、必死に啜り、吸い上げた。  久しぶりに味わう甘みが、空腹と喉の乾きをどうしようもなく思い出させた。ヴァルジネは没頭した。 「は……」  アイーダの鼓動が皮膚を突き破りそうに烈しく跳ねる。ヴァルジネのベストの背中を握りしめる指の力が強まる。無意識の抵抗だろうか。体が大きく撓り、撓む。 「ヴァルジネ……」  聞いたこともないような、湿り気を帯びた穏やかな声。ヴァルジネは我に返った。自制心を奮い立たせて、アイーダの喉から唇を離した。全身で息をつく。 「もっと……吸え、よ」 「だめだ。これ以上は……」  アイーダは荒い呼吸を継いだ。いつの間にか、ほとばしらせていたらしい。サテンのブラウスが、白濁で汚されていた。 「ヴァルジネ。早く……血を」  胸を上下させながら、アイーダが懇願する。ついさっきまで快感に紅潮していた顔は、色を失いつつあった。  手首のあたりに歯を立てる。シルクの袖が見る見る赤く染まり、血が流れ落ちた。ゆっくりとアイーダの口元に寄せた。  アイーダは一瞬生臭い匂いに慄いたように顎を引いたが、すぐに目を閉じ、おずおずと血を舐めた。口を開き、落ちてくる血の雫を嚥下する。喉仏が静かに蠕動するのを、ヴァルジネはなんともいえない気分で眺めた。 「平気?」 「うん……」  瞼を痙攣させて、アイーダは何度も頷いた。 「もう……ヴァンパイアになった?」 「まだ。目が覚めるまでは」 「なんだ。きみが見えるかと思ったのに」  苦しみはたとえようがないはずなのに、アイーダは驚くほど自然に微笑む。 「でもどっちにしろ見えなかったかも。眠くて……」 「眠るといい。夜は長いから」 「そばにいる?」 「いるよ」 「よかった。やっぱりすこし怖いから」  胸が詰まった。ヴァルジネはぎこちない笑みを浮かべ、アイーダの隣に寝転がった。血に濡れたブラウスの上で、手を握りあう。 「離れるなよ」 「離れない」  ヴァルジネはアイーダの手を握りしめた。 「絶対離れない。何回生まれ変わっても、どんなところにいても、別れて二度と会えなくても、きみのそばにずっといる」 「矛盾してるよ、それ」 「そうか。それじゃ、離れてることになるもんね、やっぱり」 「そうじゃなくて。なにいってんだよ」  アイーダは目を閉じたまま、口元だけで笑った。 「せっかくずっと一緒に生きていけるようになるのに。別れるんじゃ、なんのためにヴァンパイアになるかわからない」 「そうだね」  ヴァルジネも笑った。アイーダは体を横に倒して、胸と胸を合わせるかたちになると、やっと安心したように大きく息を吐いた。 「ぼくが寝つくまでこうしていて」 「いつ寝ついたかわからない」 「馬鹿だな。声をかければいいだろ」 「そうか。そうするよ」 「目が覚めたら、一緒に歌劇を見に行こう。やさしいやつがいいな。ボレロが聞ければいいよね」 「うん、いいね」 「ちゃんと待ってろよ」 「うん、待ってる」 「約束」 「うん、約束だ」  ヴァルジネは笑って、アイーダを抱きしめた。鼻先に軽くキスをする。 「愛してる、アイーダ」 「ぼくも……」  いいながらも、アイーダはすでに眠りに落ちかけている。すぐ目の前にある顔は、血を奪われさすがに青褪めてはいたが、穏やかだった。 「アイーダ?」  興奮と緊張、恐怖に爆発しそうだった心臓の鼓動が、ゆったりとしたものに変わっていた。腕の中の体は、規則正しいリズムで上下に揺れている。 「アイーダ……寝たの?」  答えはない。アイーダはすっかり疲れ、眠ってしまったようだ。ぐったりと虚脱した体をすべてヴァルジネに任せて、夢の世界へ旅立った。  まだ少し汗の残った頬に、ぽつりと雫が垂れた。赤い雫。閉じたヴァルジネの睫毛の先。重力に負け、二滴三滴と、零れ落ちていた。  ヴァルジネは無言でアイーダを強く抱いた。額に唇を押しつけた。髪に指を絡めた。目を開けてほしいと願った。目を開けないでほしいと願った。 「ゆるしてくれ……」  一心不乱のキスの合間に、ヴァルジネは搾り出すように呟いた。 「愛してる。ゆるしてくれ。愛してる。おれを忘れないでいてくれ。おれを好きでいてくれ。ゆるしてくれ……」 「だめだ!」  ラウルは即座に立ち上がり、叫んだ。 「そんなの、絶対にだめだ。おれは反対だ」 「静かにしろよ。アイーダが起きる」  マローンは落ち着いていた。傷はすでにほとんど塞がりつつあった。細く開いた目で、じっとアイーダの寝顔を見つめている。 「嫌だ。なんでこんなことになるんだよ」  ラウルは子供のように喚いた。アイーダの眠る棺に縋りついて、離れなかった。反対側で棺に指をかけ、無表情のヴァルジネをにらんだ。 「なんでなんだ、ヴァルジネ、なんで」 「ヴァルジネを責めるな、ラウル」  マローンが静かに、しかし厳しくいった。 「おれは賛成だよ。最初から、こうするしかなかったのかもしれない」 「だからって……」  ラウルはヴァルジネに詰め寄った。 「ヴァルジネは? 兄さんと離れて、それでいいのか?」  いいはずがなかった。一度は、乞われるままに、血を与えようと思った。だが、結局できなかった。咄嗟に、自分の手首を切るふりをして、ブラウスに染み込ませた別の血を絞り出した。 「アイーダ自身の血を飲ませたのか? 見たとこ、どこにも傷がないみたいだけど」 「……背中のほうにあるんだよ」 「じゃ、手当てしておいたほうが」 「そんなに深い傷じゃないから、だいじょうぶ」  ヴァルジネは慌てていった。 「それより、出港時間が近づいてるんじゃないか。船員に見つからないように、船に乗せないと」  マローンが棺桶の蓋を閉めようとするのを、ラウルが体を割り込ませるようにして止めた。 「もう少し考えさせてくれよ。他に手はないか」 「ラウル……」  マローンがため息をつく。 「アイーダのためには、こうするのが一番いいんだよ」 「兄さんはヴァンパイアになりたいっていったんだろ」  ラウルの言葉に、マローンは顔を強張らせた。 「狩りに行ったときのことを忘れたのか。あんなことを、アイーダにさせる気か」  ラウルが凍りつく。ヴァルジネは目を伏せた。マローンが静かに立ち上がった。 「さよならのキスしよう」  だれにともなくいって、マローンはアイーダの両手を組んでやると、指に軽くキスした。額にも。 「ほら、ラウル」  ラウルは腑抜けたようになっていたが、マローンに助けられて立つと、アイーダの額に唇をつけた。そのまま、アイーダの胸に頭をもたせかけ、肩を震わせた。 「知らない国でひとりきりになって、兄さんになにかがあったら?」 「なにもない」  ヴァルジネははっきりといった。 「おれも同じ船に乗る。アイーダと同じ国に行って、遠くからアイーダを見続ける。何十年かたってアイーダが死んだら、その子供を見守る。その子が死んだら、そのまた子供を見る」  マローンがなんともいえない目でヴァルジネを見た。 「つらいぞ」 「約束したんだ。ずっとそばにいるって」 「アイーダがそれを知らなくてもか。それに、目が覚めたら、きっとおまえを恨むぞ」 「覚悟してる」  ラウルが顔を上げた。ヴァルジネをにらむ目には、強い意思の光が戻っていた。 「おれも行くよ」 「まったくしょうがねえなあ」  マローンは苦笑いした。 「ヴァルジネ」  ラウルが目で促して、そっと棺を離れる。  ヴァルジネは棺の前に膝をつき、そっとアイーダの頬に触れた。静かに唇を寄せる。 「おれたちがついてる。みんな、アイーダのことを愛してるから」  3人のヴァンパイアに見守られて、アイーダは幸せそうに眠っている。目が覚めて、自分の体が人間のままであることに気づいたとき、アイーダはひとり、悲しみに暮れるだろう。だが、それは一時的なものだ。これから先、なにがあっても、アイーダの身に不幸が降りかかることはない。なにがあっても。 「ねえ、アイーダ」  チェルシーにあるアイーダの部屋で足を寛げながら、ヴァルジネは上目遣いに恋人を見た。外は大雨で、雷も鳴っている。しかし、暖房の効いた室内はあたたかく、快適だった。 「なに」 「ロンドン出張から直接きたんだよ。ものすごく疲れてるんだけど」 「ご苦労様」 「ありがと。……じゃなくて、もっとこう、優しくしてくれてもいいんじゃないの」  お気に入りの詩集を手に、こちらを振り向きもしないアイーダに焦れ、ヴァルジネはわざとらしい泣き顔を作ってみせた。 「どうしてそんなに冷たくするんだよ」 「べつに冷たくないよ」 「冷たいよ。こんなに愛してるのに」 「うーん、そうかなあ」  しきりに抱きついてこようとするヴァルジネの腕を煩わしげに追いやって、アイーダは考え込んだ。 「そういわれてみれば、どうしてか、きみといると、ついいじめたくなってしまうんだ。前世でなんかの因縁があったんじゃないかな。ぼくになにかしたんじゃない?」 「……」 「冗談だよ。そんなに落ち込むなよ」 「いや、落ち込んではいないけどさ。きみはもっと現実的なひとかと思ってたから、すこし驚いた」 「そのつもりなんだけどね。なんていうか、変だなって思うときがあって」 「たとえば?」 「うまくいえないけど、なんにもしないのに、いつの間にか危機回避しちゃってたりとか。不幸とか危険のほうが、勝手に逃げてく感じ。強い守護霊でもついてるのかな」 「霊とは限らないよ」 「ん?」 「なんでもない。それだけ?」 「きみのことも」 「因縁がどうとか?」 「そうじゃなくて、はじめて会ったとき、どこかで会った気がした。今も、なんかそんな感じがする。生まれる前から知ってるような」 「運命だね」 「真面目に聞く気あるの」 「ごめんなさい」 「仕事先でマローンと会ったときも、同じことを思ったんだよなあ。それに、ラウル」 「ラウルは弟なんだから、前から知っているのは当然だろう」 「そうじゃなくて……」 「なに」 「笑わない?」 「笑わないよ」  しずかに詩集を閉じると、アイーダはヴァルジネの隣に座った。天井を見上げて、わずかに首を傾げる。 「不思議な感じがするんだ。あいつとは、何度生まれ変わっても、兄弟になってしまうような。ありえないだろう。あいつ、ひょっとすると、どこかの星からきた宇宙人で、ぼくの弟といつの間にかすり替わってるんじゃ……」  ヴァルジネは噴き出した。アイーダはむっとしたような顔で、立ち上がった。その手を、慌ててつかむ。 「ごめん、ごめん」 「笑わないっていったくせに」 「いや、あまりにも突拍子なさすぎるから」  笑いを噛み殺しながら、ヴァルジネはアイーダの腰を抱いて、自分の膝の上に誘導した。不肖不肖といった様子ではあったが、アイーダもされるがまま、ヴァルジネの首に両腕を回す。 「じゃ、おれとマローンも宇宙人か」 「ちがう?」 「惜しいけど、ちょっとちがうなあ」  ヴァルジネは笑いながら、アイーダの首すじにキスした。 「じゃ、なに」 「吸血鬼」  今度はアイーダが噴き出す番だった。 「笑ったな。血を吸ってやる」 「やめろ、馬鹿」  ベッドの上でもつれあう。じゃれあうようなつつきあいが、徐々に湿り気を帯びた愛撫に変化する。 「なにか音楽をかけて」 「おれのお気に入りでも?」 「いいよ」  静かなメロディが聞こえてきた。音がかすれ、途切れがちなのは、レコードが古いせいだ。 「ボレロか。珍しいね」 「たまにはいいでしょ」 「うん」 <拝啓 またお手紙書いてます……。夜のしじまに誘われて、あなたとお話したくなりました……。あなたも想い出しているかしら……この不思議な恋の悲しい夢を……。この世で二度と会えなくても、たとえ死ぬまで離れていても……それが定めだから……、誓っていいます、この心はあなたのもの、思いも残りの人生も……、この苦しみがあなたのものであるように……>  かすれた声が叙情的に歌い上げる。  アイーダは緩く目を閉じ、ボレロに身を任せていたが、やがて不自然に眉を寄せた。 「どうしたの」 「いや……なんだか、この曲、昔どこかで聞いたことあるような気がして」 「そう?」 「一緒じゃなかった?」 「そうだっけ」 「わからない。思い出せない」  アイーダはもどかしげに首を傾げた。  ヴァルジネは内心ほっとしていた。どうも、今度のアイーダは勘がよすぎて困る。  しかし、狼狽しながらも、アイーダが転生するたびに、さりげなさを装って、この曲を聞かせている。どこかでアイーダが記憶を取り戻してくれるのを望んでいるのだった。もちろん、そんなことがありえないのはよくわかっていた。  レコードが甲高い音を立てて歪んだ。雷がすぐ近くに落ちる音が轟いて、アイーダは身を竦めた。 「びっくりした」 「近かったね」 「うちに落ちるかと思ったよ」 「それはないよ」 「わからないだろ」 「いや、絶対ない」  やけに力強く保障するヴァルジネを怪訝そうに眺めながら、アイーダはのんびりと服を脱いだ。よく目を凝らして見なければわからない、薄い小さなふたつの痣が首すじに浮いているのを見て、ヴァルジネは満足のため息をついた。 「生まれつきなんだよ」  視線に気づいたアイーダが、照れたように顔を伏せる。 「きれいだな」 「馬鹿」  アイーダは拗ねたようにいって、ヴァルジネのうなじに指を滑らせた。 「おれにも見せて」 「なにを」 「きみの顔。ときどきね、見たくなるんだ」  薄明かりとボレロの中、見つめあった。 「はじめて会ったとき」 「うん?」 「前から知ってた気がしたっていったけど、それだけじゃなかった」 「どう思った?」 「たぶん、好きになるだろうなって」  ヴァルジネは微笑んだ。 「おれのほうが、ずっとずっと前から好きだったよ」  アイーダが濡れた息を漏らす。首すじの痣に、ヴァルジネは舌を這わせた。この数世紀の間に、何万回と繰り返してきた行為に溺れた。 「ヴァルジネ……ヴァルジネ……」  ヴァルジネの愛撫を受けながら、アイーダはうわごとのように呟いた。 「約束……歌劇……歌劇を見に、行こう」  ヴァルジネは跳ね起きた。いきなり中断され、アイーダは不服げに眉を寄せた。 「なに、どうしたんだよ」 「今……なにかいった?」 「え?」  夜は、長い。  落雷の残滓である白い煙を忌々しげに眺めて、マローンは肩で息をついた。 「いくら昼でも動ける大ヴェテランだとはいっても、さすがに雷を操るのは、ちょっとつらいな」 「まったくね」  隣で、ラウルも同じように汗を拭っている。もっとも、夥しい量の雨水がレインコートをずぶ濡れにしているので、どこまでが汗なのかわからない。いや、そもそも、汗などは流れない体だ。 「それにしたって、ヴァンパイアがレインコートなんてさ」 「しょうがないだろ。マントは濡れると重いし、第一、人目につく」 「ロマンがないな」  首を振りながら、ラウルは山の向こうのアイーダの部屋に視線を向け、顔をしかめた。 「こっちは重労働だっていうのに……」 「そう怒るな。血圧が上がるぞ」 「21世紀風のブラック・ジョークか?」 「まあ、今夜は引き上げて、メシ行こうぜ、メシ。ギャルの血がいいな。フルコースでいきたいね」 「あ、明日おれ仕事」 「ヴァンパイアがワーカホリックか」 「兄さんのそばに自然にいるためには、人間のふりをしなきゃいけないっていったのは、マローンじゃないか」 「しょうがないな。アイーダのためだ」  マローンはため息をついたが、まんざらでもないという顔つきだった。 ふたりの吸血鬼はマント……いや、レインコートを広げて夜空を舞う。  夜はまだこれからだった。 おわり
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