1.旅路

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1.旅路

 腹が減った。  暗く寒い部屋のなかで、おれは床にうずくまり、小刻みに体を震わせていた。体の芯から冷え、筋肉が強張って痛む。しかし、寒さや痛みがどうでもいいと思えるほど空腹でしかたがなかった。頭のなかは食べもののことばかりで、それ以外のことは考えられない。  冷蔵庫のなかのものはすべて食べ尽くし、買い置きの菓子や醤油にマヨネーズといった調味料も舐めた。缶詰は傷んでいたようで、腹を下していた。糞尿と吐瀉物が混じり合った悪臭が部屋中に充満し、目を開けているのがやっとだ。  どうにか瞼を持ち上げ、必死に眼球だけを動かして周囲を見渡す。狭い部屋にはおれひとりだけで、窓にもドアにも鍵が掛けられ、内側から開かないようテープが何重にも貼られていた。  早く帰ってきてくれ。  霞がかかった頭で必死に祈る。いや、だれでもいい。会ったこともないだれかでいい。なにか食べるものをくれ。ここから外に出してくれ。頼むから外に……  飛行機が揺れ、上半身が大きく前に傾いだ。  おれの肩に頭を預けて眠っていた宥人が目を擦りながら身を起こす。 「ごめん、凭れてた?」  手の甲で口元を覆って小さく欠伸する。 「いいよ。おれも寝てて気づかなかった」  宥人が眠ったのを確認してかけてやった毛布の端をつまんで持ち上げる。かけなおしてやると、宥人は軽く身を捩った。周囲の視線を気にして、おれとの距離をはかる。 「どうかした?」  おれの顔を覗きこむように首を傾けて、宥人が囁く。目敏いのは神経質な性格のせいか、あるいは弁護士という職業柄か、そうでなければ、おれのことが好きで、ずっと見ているから、こまかい変化に気づくのかもしれない。 「べつに」  短く答えてから、思いなおし、言葉を繋いだ。 「ちょっと夢見てたみたい」 「なんの夢?」 「ガキの頃の夢」  子ども時代の夢などほとんど見たことがなかった。東京を離れ、生まれ育った土地に近づいているせいだろうか。 「楽しい夢?」 「いや、全然」  楽しい思い出などひとつとしてなかった。無表情を維持したつもりだったが、やはり宥人は目敏く気づいた。夢の内容についてそれ以上は追求せず、話題を変えた。 「善くん、おなか空いてない?」 「んー、そこそこくらい」  答えたが、宥人は聞いていない。手荷物として持ち込んだバッグを床から取り上げ、ファスナーを開けて中身をまさぐった。 「食べる?」  茶色の箱のなかに洒落た包装紙の柄が見える。宥人が包みを開くと、すこし厚めのクッキーが行儀よく並んで箱に収まっていた。 「機内食のオーダー締め切っちゃったし、こんなものしかないけど」 「いつ買ったの?」  空港ではずっといっしょにいたが、買いものをしていたとは気づかなかった。 「買ったんじゃないよ」  宥人が恥ずかしそうに笑う。 「え、つくったの?」  受け取った箱をあらためて見なおす。列をつくっているクッキーは見事にかたちがそろって焼き色にもムラがなく、店で売られているものにしか見えなかった。 「宥人さん、お菓子もつくれんの?」 「どっちかというとお菓子のほうが得意だよ」  1枚つまみ上げ、口にはこぶ。甘すぎず、すこしやわらかめの歯ごたえが心地いい。生地にチョコチップが練り込まれているアメリカ式のホームメイドクッキーだ。 「すげえ。マジで旨すぎる。信じらんねえ」  子どものような声を漏らすおれを見て、宥人はまた笑った。2枚目をつまむおれを楽しげに眺めている。 「お土産にと思って実家で焼いてきたんだけど、たくさん焼きすぎちゃってさ」 「なんだよ。おれにつくってくれたんじゃねえの」  不貞腐れるおれを見て宥人がますます相好を崩す。通路を挟んで反対側の乗客が欠伸をして体を伸ばすのに気づき、慌てて表情を引き締めた。 「宥人さんは?」 「いい。ダイエット中」 「全然太ってねえじゃん」 「太ったんだよ。ここ半年で3キロも」  宥人がため息をつく。いかにも深刻といった様子に、噴き出しそうになった。 「笑いごとじゃないって。もともと太りやすい体質だから、油断するとすぐ体重増えちゃうんだよ。うちの家族知ってるだろ」  付き合うようになってから、宥人の実家へもときどき遊びに行っていた。両親と妹たちも宥人とおなじく食道楽で、そろってふくよかな体型だった。 「おれも高校までは太ってたんだよ。今より30キロくらい」 「嘘だろ。想像できねえな」  クッキーを噛み砕きながらいう。宥人は顎を上げ、首を伸ばして目薬をさしている。先月からコンタクトレンズをつかうようになって、目薬が手放せなくなっていた。 「べつに宥人さんが太っても問題ないけど、おれ的には」 「善くん」  周囲の目と耳を気にして、宥人が眉間に皺を寄せる。 「もうわかったから。ほら、そろそろ着くよ」  クッキーを頬張っているうちに、シートベルトを締めるよう指示するアナウンスが機内に流れた。クッキーと箱で両手が塞がっているおれの代わりに、宥人が上半身を倒し、おれの体ごしにシートベルトを引き寄せ、バックルに嵌めた。体が近づくと、小麦粉と砂糖の甘い匂いに混じって宥人の匂いがふわりと鼻腔を擽った。今朝シャワーを浴びたときのシャンプーとヘアオイルの匂い。以前までは香水をつかっていたが、今はつけていない。おれが香水を好きでないためだ。直接口にしたわけではないが、表情や態度から察していたのだろう。  同居をはじめてから、宥人の匂いは性的興奮だけでなくそれとは正反対の日常の穏やかさを連想させるものになった。悪夢の記憶は薄らぎ、過去の呪縛から解放された気分になった。  空腹だったわけではない。夜のうちに宥人が用意しておいた朝食を食べてから出発した。しかし、気づくと箱は空になっていた。  考えてみれば、手作りの菓子を食べたのははじめてだ。バレンタインやクリスマスに当時の彼女からチョコレートやケーキをもらったことはあるが、すべて市販のものだった。自宅にオーブンや専用器具があるような生活をしている人種は周囲にはいなかった。もちろん、自分自身の家庭も含めて。  宥人だけではない。おれもここ数か月体が重くなっていると実感していた。宥人がつくってくれる食事が旨すぎて、つい食べすぎてしまう。カロリーを抑えて栄養価のバランスを整えた献立を用意してくれてはいるが、それでも食べすぎれば当然体重になって跳ね返ってくる。  すこし筋トレの回数を増やすべきかもしれない。宥人とおなじように、おれも体型を気にしていた。宥人が割れた腹筋を好むことはよく知っている。落胆させたくない。  熊本空港に着くと、宥人が事前に手配したレンタカーの受け渡しに向かった。2泊3日の短い旅だ。荷物はそう多くない。軽自動車の後部座席に積みこむ。 「宥人さん」  自分のキャリーケースを積んでから、背後の宥人に手を差し出す。 「ありがとう」  宥人が素直にバッグを差し出し、ふたりぶんの荷物を積み終えると、おれは助手席に体を滑らせた。 「おれが運転したかったな」 「免許持ってないじゃん」  運転席に乗り込んだ宥人がステアリングに手をかけ、ふと気づいたかのように動きを止めておれをにらんだ。 「それ以上いわないように」  人差し指を立てて牽制する。たしかに、無免許運転の経験を耳にしたら、放置はできなくなるだろう。弁護士の立場というものがある。  サイドギアをつかむ宥人の左手に掌を重ねた。助手席から首を伸ばして、運転席の宥人の唇に軽くキスする。 「やっとふたりだけになれた」 「まだたくさんひとがいるよ」  呆れたように、しかしはっきりと顔を朱に染めて、宥人は車を発進させた。空港を後にして、国道に出る。 「お菓子もうないの」 「ないよ。お土産に持ってきたんだから」 「土産なんて必要ないだろ」 「おれが渡したくて持ってきたんだけど……問題あるかな」 「べつに……問題はないけど」  窓を開け、肘を突き出して外の空気を吸う。東京では味わうことのない澄んだ空気。景色も悪くない。ただの旅行としてきていればもっと心地よかっただろう。  ふたりで暮らすようになって1年近くになる。宥人は弁護士、おれはホテルのレストランで接客業をしていて、互いに忙しく、近所で食事をすることはあったが、遠出ははじめてだった。宥人ほどの激務ではないが、おれも現場を任されるようになって、上司にあたる飲料部門責任者からマネージャー登用試験を受けないかといわれていた。キャリアや昇給にそれほど関心はないが、真面目に働いていることがわかれば、母親も安心するだろう。おれの身や生活を案じていればの話だが。 「善くん、甘いもの苦手なのかと思ってた」 「なんで」 「おれが持ってった手土産、いつも女の子たちにあげてたでしょ」  気づいていたのか。首を窄めて誤魔化した。 「だからつくってくれなかったのかよ。1年も付き合ってんのに」 「でもないけど……」  フロントガラスを真っ直ぐ見つめながら、宥人が微笑を浮かべる。 「高校の頃、好きなひとの部活に差し入れしたら、男の手作りクッキーなんてキモいっていわれちゃって」  すくなくはない宥人の傷のひとつ。付き合うようになって、性的少数者と呼ばれる人々がどのような迫害や差別を受けてきたのかすこしは理解できるようになった。しかし、実感として伴っているかというと決してそうはいえない。宥人と会うまで、男と付き合うなど想像すらしなかった。  十代の頃を思い出す。お世辞にも品がいいとはいえない子どもだった。学校も禄に行った記憶がない。もし当時のおれが男に手作りクッキーをもらったらどう反応するか。絶対に傷つけないという自信はない。相手にも周囲にも思慮深く振る舞い、さりげなく拒絶する手法など身についているはずがなかった。  再び記憶を辿る。今度はもうすこし近い過去。黒服として勤務していたクラブに客として訪れた宥人と親しくなった。そのうちに宥人はおれのアパートに通いはじめ、不規則な食生活のおれを気遣って食事をつくるようになった。家庭料理の味を知らずに育ったおれにとって、素朴だがやさしい味わいの料理は驚きの連続だった。  弁護士として忙しい日々を送りながら、自宅から遠いおれのアパートに足繁く通い、店にも頻繁に顔を出した。すべてにおいておれを優先し、おれが体調を崩せば出張先から駆けつけて世話をしてくれた。そのひたむきさと健気さは学生の頃から変わっていないようで、運転する横顔を眺めながらいとおしさがこみ上げてきた。 「おれが食うよ」 「え?」 「宥人さんがつくるものは全部おれが食うから、おれのためにつくってよ」 「……わかった」  いとおしさだけではない。同時に醜悪な嫉妬も抱いていた。おれと出会うずっと前、学生時代の頃のこととはいえ、ほかの男のために宥人が心を尽くし、その結果傷つけられ打ちのめされた事実を想像すると、妙に苛立った。  これまでに付き合ってきた相手にそんな感情を抱いたことはなかった。浮気されたこともあるが、たいして腹も立てることなく即座に別れた。  宥人だけがちがう。飛行機が空港に到着し、機内を出るとき、通路の反対側の席の男が気をきかせて宥人の荷物を下ろした。混雑していたため離れた収納スペースを使用していたのだ。宥人は微笑みを浮かべて礼をいった。ただの礼儀だとわかっている。相手に他意はない。宥人にしても、親切に応えただけだ。それでも、燃えるような苛立ちを感じた。もちろん、態度には出さないものの、宥人が他の男と話したり笑いかけたりするたび、形容しがたい焦りや怒りを感じる。好かれている自信がないわけではないが、どうにも余裕がない。宥人には気づかれたくなかった。
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