17.チョコチップクッキー

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17.チョコチップクッキー

 夢も見ないほど熟睡した。宥人に起こされるまで完全に意識を失っていた。  時間としてはじゅうぶんではなかったはずだが、溜まっていた疲労が抜け、すっきりと全身が軽かった。体だけではない。心の澱が消え、息が楽になっていた。  ふたりで朝風呂に入り、朝食を取った。露店風呂以上に好評だという旅館自慢の朝食は、確かに絶品だった。新鮮な魚貝に熊本産の牛や山菜、季節の果物がふんだんにつかわれた料理はどれも手がこんでいた。おれも素直に感服したが、出発前から楽しみにしていた宥人の喜びようは凄まじかった。おれの我儘のせいでみすみす1日目の朝食を逃したことを申し訳なく思った。  チェックアウトを済ませ、レンタカーを返却して、空港に向かった。搭乗の案内を待ちながら、空港内のショップで買ったコーヒーとスナック菓子で時間を潰す。 「そういやプリクラの画像載せただろ。どうなった?」 「ああ……」  手持ち無沙汰になってなにげなく聞くと、宥人は複雑な表情を見せた。 「すんごくバズってる」  差し出されたスマホを受け取る。ロックを解除するためのパスワードはおぼえていた。 「とくにフジくんが荒ぶってる」  宥人が拗ねたような顔を見せる。本気で嫉妬しているわけではなく、悪戯っぽい表情だった。 「やっぱ善くんの写真載せるのやめとけばよかったかも」  膨大な数のフォロワーを有する宥人のSNSは数秒措きに反応が表示されていた。もっとも新しい投稿は昨日おれと撮ったプリクラの画像で、数万人に拡散されていた。コメント欄には祝福や羨望の言葉が溢れていたが、宥人の容姿や男同士の睦まじい様子を切り取った写真への嫌悪をあからさまにぶつけてくるものもあった。 「変なのは気にすんなよ」 「わかってる」  弱者を守り、差別主義者に抗議するためとはいえ、人権派弁護士として積極的に矢面に立とうとする宥人が心配だったが、やめる気はないらしい。不承不承スマホを返した。 「パスワード変えとけよ」 「なんで」 「おれが知ってんの嫌だろ」 「べつに嫌じゃない。いつでも見ていいよ」 「見ねえよ」  そうはいったものの、自分でも説得力があるとは思えなかった。 「記念日だから変えたくないし」 「なんの記念日?」 「善くんと出会った日」  おれのほうは見ずに、スマホを操作しながら宥人が長閑な口調でいう。  一目惚れではなかった。男に関心を持ったこともなかった。ともに過ごす時間のなかで、宥人のあたたかさや逞しさにふれて、好きになった。知り合った日のことはおぼえていても、日付までは記憶していなかった。パスワードを聞いてもすぐには気づけなかった。  宥人がおれを気にかけていないなどと一瞬でも考えた自分に腹が立った。宥人はおれになにも隠さず、常にそばにいてくれているのに。 「あ、そろそろかな」  宥人が顔を上げる。東京行きの機が到着し、乗客を迎える準備が整ったことを知らせるアナウンスが流れていた。おれたちはコーヒーを飲み干し、立ち上がった。おれは自分の荷物とともに宥人のリュックサックも担いだ。キャリーケースや土産の袋はなるべく全部預け、身の回りのものだけを機内に持ち込もうと決めたのにもかかわらず、搭乗の直前にも土産を買ってしまっていた。神社で食べた饅頭をどうしても家族に食べさせたいのだそうで、妹たちの饅頭や両親のための地酒でリュックは膨らんでいる。しかたのないひとだ。 「あっという間だったなあ」  座席の数字が印刷された搭乗券を手のなかで弄びながら、宥人が唇を尖らせる。 「東京に帰ったら現実が待ってると思うとつらい」  ため息が深く、隣で聞いていたおれは苦笑いした。 「死ぬほど食べちゃったから、絶食もしないと」 「そんな必要ないって」  あまりに深刻な表情でスナック菓子を囓っているのを見て、おれは笑いを噛みころした。 「また時間合わせて旅行しよう」 「うん」 「次はどこがいい?」  おれの問いに、宥人が腕を組んで考え込む。真剣に悩んでいるのがかわいい。 「北海道とかかなあ」 「食いもん旨いしな」 「それだけじゃないから」  心外というように宥人が顔をしかめて、おれは思わず笑った。なにげない会話のひとつひとつが輝き、思い出の箱のなかに収納されていく。 「福岡は?」 「福岡?」 「福岡もメシ旨いよ」  細長いスナック菓子を口に咥えたまま、宥人が首を傾けておれを見る。椅子の背もたれに肘を預け、恋人を見つめた。 「おれが育ったとこ、宥人さんに見せたいし」  宥人が微笑を浮かべる。おれも笑った。ここにきたときに胸を渦巻いていた不安や怒りは消えていた。きてよかった。心底そう思った。過去にけじめをつけ、未来だけを見据えて生きていける気がした。  宥人はコーヒーのプラカップをおれの手から取りあげてゴミ箱に入れると、空いた手にそっと触れた。周囲の視線を気にしながら、遠慮がちに親指を摘まんだ。だれにも気にされていないことを確認すると、おれの親指をぎゅっと握った。やわらかな表情でおれを見上げた。 「行く?」 「うん」  おれも微笑み返した。 「家に帰ろう」  搭乗口の前にはたくさんのひとが並んでいた。家族連れ、カップル、ひとり旅らしき若者や子ども。家に帰るか、どこかへ出かけるか、それぞれの行き先で、今日と明日を過ごすのだろう。  おれたちも列に加わった。日常にもどるために。いつもの日々。おれたちの生活だ。宥人は困っている人々のため仕事に忙殺され、小料理屋の女将に教えてもらったレシピで饅頭を再現し、ダイエットを再開する。おれはマネージャー昇格試験を受ける。今この瞬間を生き延びるだけでなく、未来のために生きる。宥人といっしょに。  搭乗券を探してデニムのポケットに手を入れる。さらりとした紐の感触。神社で購入した揃いの御守だ。今朝、人形にそれぞれ目を書いた。赤いほうをおれが、もうひとつを宥人が持つことにしていた。  神は信じない。だが、もしいるのならすべて水に流してやってもいい。ついでに感謝もしよう。ようやく寄越してくれたのだ。ずっと待っていた。無視されているものと思っていた。  ゆっくりと動く列に合わせてすこしずつ歩を進めながら、おれの意識は3歳のときの記憶をたぐり寄せていた。  食料が尽き、水道水を舐めながら、エアコンのない狭い部屋で糞尿と汗にまみれていたおれの命を繋いでいたのはなんだったのか。おれはなにを待っていたのか。ようやくわかった。  記憶のなかの子どものおれが目を開けた。ドアが開き、だれかが入ってきた。母親ではない。確かめたかったが、衰弱した体は動かない。  部屋に入ってきた人物が静かに近づいてくる。甘い匂いがした。チョコチップクッキーの匂いだ。おれは最後に残った力を振り絞って、ほんのわずかに頭を持ち上げた。  そのひとはおれの前でしゃがみこみ、やさしい声でこういった。 「善くん、おなか空いてない?」 おわり。
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