3.家族

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3.家族

「……でいいかな?」  考えに耽っていて、また宥人の言葉を聞き逃した。反射的に頷いた。 「うん、いいよ」  運転席で宥人が安堵したように微笑む。 「よかった。危ないことはないから安心して」 「危ないこと?」  胸が騒ぎ、聞き返す。 「ごめん。もう一回いって。風でよく聞こえなかった」 「だから、明日ちょっとひとと会いたいんだ」 「明日? だれと?」  旅先では仕事はしない約束だった。振り向くと、宥人は申し訳なさそうに肩を竦めた。 「性自認に悩んでいる子で、前からオンラインで相談に乗ってたんだけど、今日熊本に行くっていったらぜひ会いたいって。この近くに住んでるみたい」  宥人が社会活動の一環として若者の相談に乗っていることは知っていた。とりわけ、テレビや雑誌でも積極的に差別撤廃を主張し、自身のセクシュアリティに関して公表している宥人には、おなじように性自認に悩む少年少女らからのコンタクトが多かった。仕事熱心な宥人が毎晩深夜まで一通一通返信しているのを見ていただけに、無下に撥ねつけるのは憚られた。 「……それ男? 女?」 「男の子だよ。18歳で、学校でいじめに遭って今は自宅で過ごしているんだけど、フリースクールに通えないかと思って……」  宥人にとって、女は恋愛対象に入らない。しかし、男となると話はべつだ。すこし悩んでから、おれはいった。 「知らない奴と会うなんて危ないだろ。おれもいっしょに行くよ」 「あ、いや、それは……」  宥人が不自然に口籠もる。 「そんな時間かからないし、善くんについてきてもらうのも悪いから」 「いいよ。どうせ明日は適当にその辺ぶらつく予定にしてただろ」 「そうだけど……」  ぎこちなく笑って、宥人はいった。 「やっぱいいや。やめとく」 「え、なんで?」 「せっかくの旅行だし、ふたりの時間を大事にしたいから」  若干の違和感をおぼえたが、追求するよりも先に車が目的地に到着した。  郊外のショッピングモールに併設されたファミリー向けのレストラン。指定したのは向こうのほうだった。マンションはすぐ近くだというが、さすがに自宅へ招くのには抵抗があったのだろう。血が繋がっているとはいえ、10年も音信不通で、しかもほかの家庭とは事情がちがう。  すこし前に東京から一度電話してあった。回線の向こう側の母の声は、記憶の奥底にあるものと似ている気もしたが、再婚して落ち着いたからか、いくらかやわらかくなっていた。しかし、穏やかな口調のなかには警戒も覗けていた。突然訪ねたいという理由や意図を勘ぐっているのだろう。金の無心を心配しているのかもしれない。恋人を紹介したいだけだと説明したが、信用したかどうかはわからなかった。 「だいじょうぶ?」  唐突に尋ねられた。 「なにが?」 「あんまり気が乗らなかったかなって」  宥人は不安そうな眼差しでおれを見ている。 「おれが親御さんに挨拶したいっていったから……」 「ちがうよ。宥人さんのせいじゃない」  即座に否定したが、神経質になっていたのは確かだった。宥人に気を遣わせてしまったことに気づき、おれは笑顔をつくった。 「うちの親、けっこう強烈だから、宥人さんをびっくりさせないか心配してるだけ」 「そんなことないよ」  宥人も微笑を浮かべた。おれ以上に緊張しているように見えた。 「おれのこと、話してるんだよね?」  車を施設内の立体駐車場に停め、ドアをロックして、宥人は何度目かの確認をする。 「ちゃんと話してるよ。だいじょうぶ」  不安げな宥人の肩に手を置いて、抱き寄せる。隣のスペースに駐車した車の運転席にいた中年男が訝しげな視線を送ってきた。宥人はさりげなくおれの腕から逃げ、身を屈めて後部座席の荷物を取り出した。 「すこし早いけど、お店に入っておこうか」  おれの先に立って歩き出す。背中には緊張が見えた。口を開きかけたが、けっきょくはなにもいわず、後を追った。  週末の大型ショッピングモールは混雑していて、家族連れの姿が多く見られた。エスカレーターに乗ると、目の前で父親に抱かれた1歳くらいの女の子と目が合った。小さな子どもというのは、好奇心からか、一度目が合うと瞬きもせずひたすらに見つめてくる。おれは目を逸らしたが、背後にいた宥人がおれの肩越しに手を振った。  子どもは苦手だ。どう接していいかわからない。一方、宥人はふだんから甥や姪の面倒を見ているためか、子どもが好きで、また向こうからも好かれた。 「宥人さん、子ども好きだよね」 「うん、好き」  素直に頷く。子どものおかげですこし表情がやわらいでいた。おれの背中に軽く手を置いてエスカレーターを降りる。 「善くんの弟と妹にも早く会いたいな」  弟は3歳、妹は1歳になるはずだった。ついこの間まで存在さえ知らなかった。血を分けたきょうだいという感覚にまだ現実味がない。 「店どこ?」 「えっと、食品館の手前だから……」  几帳面な宥人らしく、事前に調べておいたらしい。スマホを操作しながら歩き、反対側からきた客とぶつかりそうになった。背後から手を伸ばして腕を引く。 「危ないよ」 「あ、ごめん」  そのまま手を繋ごうとしたが、避けられた。 「……人目があるから」  隣にいるおれにだけ聞き取れるほどの声で呟く。 「そうだね。ごめん」  短くいって、距離を取った。すこし離れて歩き、レストランを目指す。  九州に到着してから、宥人の態度がよそよそしい気がする。ふだんの生活圏から離れて落ち着かないのかもしれない。田舎町で男同士が親密にしていれば目立つだろうし、焦ることはない。今夜も明日もふたりきりなのだ。  おれはともかく、弁護士の宥人はここのところ多忙を極めており、2泊3日の旅行のためにここ数週間は毎日帰宅が遅かった。ようやく捥ぎ取った休暇だ。家族に会う以外にはあえて予定を詰めずにふたりでのんびり楽しむことになっていた。  面会を初日にしたのには理由がある。もし望んでいたものとはちがう再会になったとしても、残りの時間を宥人と水入らずで過ごすことができれば気も紛れるだろう。  レストランに入ると、相手が先に到着していた。約束の時間より15分ほど早い。すこし意外に感じた。母親のだらしなさを知っているからだ。  視線で宥人に知らせる。宥人の緊張が高まったのがわかる。表情が強張り、笑顔はぎこちなかった。 「だいじょうぶ?」  尋ねると、無言で頷いた。  店の奥、もっとも広い家族向けのテーブル席に彼らはいた。母は明るく染めた髪をヘアゴムで雑にまとめ、ゆったりとした白いワンピースを着ていた。小さな娘を胸に抱いている。赤ん坊は眠っているようで、体ごと軽く揺すっている。  母は40を過ぎているはずだったが、もうすこし若く見えた。隣には眼鏡をかけた中年男。こちらは60近いように見える。母の再婚相手だろう。ふたりの間にはあどけない顔をした男の子。玩具の車を握りしめている。どこにでもいるふつうの家族に見えた。  おれの姿に気づいた母が顔を上げた。赤ん坊を抱いたまま立ち上がる。妻の様子を見た夫もこちらに顔を向けた。 「……善?」  母が微笑んだ。笑顔に親しみはなかった。警戒心が混じったぎこちない表情でおれを見た。 「きみが善くんか」  眼鏡をかけた男が視線を向けてくる。やはり警戒しているようで、品定めするような目つきが不快だった。 「どうも」  社交辞令的に頭を下げて、向かい側の席に座る。 「菊地宥人さん」  隣に座った宥人を掌で指してみせる。 「はじめまして。菊地です」  宥人は挨拶したが、夫婦は戸惑ったように視線を交わした。 「菊地さんって、いっしょに住んどるっていう……?」  母が遠慮がちに尋ねる。 「そうだよ。連れてくるっていったろ」  意識的に母から視線を背けて、乱暴に答える。 「電話したの聞いてなかったのかよ」 「聞いとったけど……」  母は宥人を見ながら躊躇いがちにいった。 「女ん子やて思うとったけん……」  宥人の視線を半身に感じながら、おれは雑な手つきで店のメニューを開いた。カラフルな制服を着た女性スタッフがオーダーを取りにきて、ふたりぶんのコーヒーを頼む。注文の間にも、夫婦はしきりに視線を交換していた。  予想はしていたが、10年ぶりの再会から得られる感動は皆無だった。母の印象は昔と変わらない。すくなくとも、今は。  視線に気づいた。テーブルに顎をくっつけて、弟らしき子どもがこちらを見つめていた。 「ハル、ほら、お兄ちゃん」  母が我が子の頭を撫でてやる。 「こんにちは。ハルくんっていうの?」  声を掛けたのはおれでなく宥人だった。首を傾げて目線を近づける。 「はじめまして。高橋といいます」  冷めたコーヒーを飲みながら、男が口を開いた。まるで息子と宥人の間を遮るように、コーヒーカップを突き出す。母が立ち上がり、片手で娘を抱っこしたまま、空になったカップを持って行く。ドリンクはセルフサービスらしい。当然のような動作だった。ふだんから身に染みついているのだろう。宥人も気が利くタイプだが、それとはちがう。確信があった。 「善くんは今年27だっけ」  高橋という男は神経質そうに紙ナプキンで眼鏡を拭いていった。おれたちに食事の注文を勧める気はないらしい。自分たちもすでに昼食を済ませてきたのか、テーブルにはコーヒーとジュースだけだった。 「そちらは? ええと……菊地さん?」  宥人のほうには視線さえ向けない。 「あ……37です」 「37……」  噛み砕くようにゆっくり復唱する。 「立派な大人ですね」  どう答えていいか迷っているのか、宥人は黙っている。代わりに答えた。 「宥人さんは弁護士なんです」 「弁護士……それは立派な」 「おれはホテルのレストランで働いていて、まっとうにやってます」 「それはよかった」  高橋という男の表情にも口調にも色というものがなかった。無味無臭の男。母の再婚相手という微妙な立場を除いても、友人にしたいタイプには思えなかった。  母が新しいコーヒーを淹れてもどってきた。一口啜って、高橋が顔をしかめる。 「アメリカンじゃない。ブレンドだろ」 「あ……ごめんなさい」  高橋がため息をつく。深い深いため息だった。母が蒼ざめ、俯いた。胸がむかついた。 「それで」  眼鏡をかけなおし、高橋がいった。 「今回はどういった用件で?」  商談でもするかのような冷たい口調だった。 「用件って?」  こちらもつい棘のある声になる。テーブルの下で宥人の手がおれの膝に置かれた。あたたかい体温を感じる。 「べつに……ただ、久しぶりに会ってみようかと思っただけです」 「本当に?」 「本当です」  義理の父と向かい合って、しばらく無言でいた。宥人と母は息をころして俯いている。弟はミニカーで遊んでいる。不穏な空気を察したのか、眠っていた赤ん坊が目を覚ました。小さな手足をばたつかせ、むずかりはじめた。あやそうとした母がテーブルの上のおしゃぶりを落とした。  宥人がおしゃぶりを拾い上げる。 「どうぞ」 「あ、ごめんなさい……」  テーブルの上におしゃぶりをもどして、宥人は赤ん坊に笑いかけた。 「かわいいですね」 「どうも……」  母の笑顔が歪む。 「あの、申し訳ないけど」  横で見ていた高橋が口を挟んだ。 「勝手に子どもに触らないでもらえます?」 「あ、すみません……」  触ろうとしていたわけでもないのに、宥人は即座に謝罪した。神経が張り詰め、こめかみが蠢いた。膝の上の宥人の手に力が籠もった。 「失礼。なるべく雑菌に触れさせないよう気を遣っているもんですから」 「いえ……当然だと思います」 「そうですか。頭のいい方はやっぱりちがう」  わざとらしいいいかただった。宥人は表情を強張らせている。母も俯いて黙っている。重苦しい空気。高橋はまったく頓着していない。それどころか、主導権を握って悦に入っているように見えた。 「世の中汚いもんばっかじゃんかよ……」  独白のつもりだったが、聞こえてもいいと思った。宥人が無言で窘めるような視線を向けてきたが、無視した。 「きみも結婚して子どもができればわかるんじゃないかな」  含みのあるいいかた。さっきからおなじだったが、さすがに聞き逃せなかった。 「それ厭味かよ」 「善くん!」  宥人が抑えた声で制止しようとしたが、止まらなかった。 「子どもなんてできるわけないじゃん。男同士なんだから。そんなこともわかんねえの。頭よさそうなのに」  高橋の視線が周囲に巡らされる。他人の目と耳を気にしているようだった。構わずに続けた。 「おれら遊びで付き合ってるわけじゃねんだわ。宥人さん以外と結婚する気ないから、おれ」 「善くん、もういいから……」  宥人が腕を引っ張る。つよい力だった。 「ごめん。宥人さん、おれ、こいつ無理」  高橋から視線を離さないまま、いった。高橋もおれを見つめて、眼鏡の奥の狡猾そうな目を細めた。 「よかった。あと10年は安心して子育てに集中できそうだ」 「10年といわず、一生、二度と会うことないから、思う存分子育てに励めよ」  宥人の手を引いて立ち上がる。 「行こう、宥人さん」 「善くん……」  宥人を見下ろすと、視界に弟の姿が入った。大きな黒い瞳がおれを見上げている。直視できず、顔を背けた。 「早く行くぞ。さっさとこいって」  躊躇っている宥人の腕をつかみ、半ば強引に立たせる。 「善」  母親が立ち上がる。妹も不思議そうにおれを見ている。胸が詰まった。 「おれ、怒っとらんけん」  かろうじて、それだけを母親にいった。 「おれ今幸せやけん。あんたも幸せんなれや」  手を伸ばし、妹の頬に指先を触れさせた。高橋は顔をしかめただけでなにもいわなかった。半分とはいえ、血の繋がった実の兄が妹に触れることを諫める論理的な理由が見つからなかっただけで、許容したわけではないだろう。
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