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4.すれ違い
母と母の家族に背を向け、店を出た。買い物中の家族やカップルの間を縫うように、足早にレストランを離れる。すこし遅れて、宥人が追いかけてきた。
「善くん」
おれの行く手を遮るように、ほとんどはしるようにして前に立ちはだかった。仕方なく足を止めた。
「ごめんな、宥人さん」
「おれに謝らなくていいから」
急いで追いかけてきたのか、息を切らせて宥人はいう。
「お店に戻って、お母さんとお義父さんに謝ろう」
「親じゃない」
「いいから、ちゃんと謝って」
「なにを」
冷静になろうと深呼吸したが、頭に上った血は行き場をなくして脳と心臓を行き来しているようだった。
「なんでおれが謝んなきゃいけないんだよ。おれなんか悪いことした?」
「失礼な態度だっただろ」
「どっちが失礼だよ」
思わず声を荒らげた。
「あんなこといわれて黙ってられるかよ。おふくろに対する態度も見ただろ」
「だからって……」
「おれは悪くない」
「悪いよ」
宥人の口調は厳しかった。おれを真っ直ぐに見つめ、いった。
「おれのこと、ちゃんと話したっていったよね」
「話したよ、ちゃんと電話で」
「相手が男で10も年上だっていった?」
「それは……いってないけど」
拗ねていると見られないよう声を低めた。
「ふつうはそこまで最初にいわないだろ」
「ふつうじゃないだろ」
宥人も声を抑えていう。
「いきなり男の恋人連れてこられたら、だれでもびっくりするよ。なんでわかんないの」
「わかんねえよ」
一方的に責められて、おれはむっとした。両手をデニムのポケットに突っ込み、いった。
「おれたちのどこがふつうじゃねえの。ていうか、ふつうってなに? なんでいちいち周りに気遣わないといけねえんだよ。そういうのわかんねえよ」
次第に声が大きくなっていき、宥人が掌を掲げる。
「もういい」
「よくねえだろ」
閃かせた手をつかむ。顔を近づけると、宥人がわずかに怯んだ。
「傷ついた顔してた」
宥人の瞳が揺れる。口を開きかけ、周囲を行き交う買い物客の視線に気づいて、唇を噛んだ。おれの腕を振り払おうと手に力をこめたが、腕力では勝負にならない。
「なんでそんなに他人の目が気になるんだよ」
人であふれるショッピングモールのど真ん中で、おれは恋人の手を握った。
「いつもはもっと堂々としてるじゃん」
一緒に住むマンションの近所やコンビニ、居酒屋では手をつないで歩き、恋人同士として振る舞っていた。熊本へきてから、宥人の態度はよそよそしかった。おれの家族に会うために緊張しているだけだと思っていたが、ちがうようだ。
「ここは東京じゃないし……」
「田舎だからなんなんだよ。変わんねえじゃん」
「変わるよ」
宥人の声が震えていることに気づいた。おれの目を見ることなく、いった。
「おれは今までずっと他人に変な目で見られながら生きてきたんだよ。善くんにはわからない」
「なら、よけいに堂々としてろよ」
おれは頭がよくないから、宥人や高橋のように論理的な説明はできない。ただ、直感に従うだけだった。
「できないって……」
「なんでだよ」
おれたちの周囲には不自然な空間ができはじめていた。喧嘩でもはじめたと思われているのかもしれない。
「周りなんかもう気にすんなよ。なにかいわれても、おれが守ってやるから」
学生の頃から積み重ねられてきた宥人の苦痛を取り除きたかった。楽しいことだけを考えさせたかった。しかし、宥人の表情は変わらなかった。頑なにいった。
「そんなの無理だよ」
「なんで」
「いちばんおれを傷つけてるのは善くんだもん」
心臓を貫かれたような衝撃がはしって、思わず力が脱けた。宥人が手を自由にして数歩後ずさる。
「ごめん……」
宥人の表情が曇る。
「いっしょに行くから、もどってお母さんたちともう一回話そう。冷静になって話せばお互い……」
「嫌だ」
静かに、しかしはっきりといった。シャツの袖を捲り、腕を露出した。腋の内側、ふだん生活しているときには見られない位置に黒ずんだ傷跡がある。古い傷跡だ。おれの腕を枕代わりにしてまどろんでいるときに、宥人が気づいた。喧嘩で負った傷だと説明した。
「これ、ほんとは母親にやられたんだよ」
宥人が口を噤む。言葉を探して、見つけられずにいる。
「ホチキスで何度も。煙草を圧しつけられたこともあるし、1週間以上家にひとりで放置されたこともある。自分で窓を割って外に出た。でなきゃ死んでた」
騒がしい店内でも、宥人が息を飲む音が聞こえてくるようだった。
「おれはそういう環境で生きてきたんだよ。宥人さんには想像できないと思うけど」
宥人と出会っておれが変わったように、母親も変わったのではないかと期待した。何度も裏切られ、二度と期待しないと決めていたのに、変わってくれていることを望んだ。けっきょく、裏切られた。母は一度もおれを直視しなかった。
「宥人さんだって、負けないくらいおれを傷つけてるよ」
宥人は黙っている。打ちのめされたような表情。おれはため息をついた。
「ごめん」
独白のように呟いた。
「トイレ行ってくるわ」
宥人に背を向け、足早にその場を離れた。大型施設にトイレはいくつもあったが、あえてもっとも近い場所を通り過ぎ、離れたトイレに入った。
個室に鍵を掛けると、便座の蓋の上に座ってうなだれた。両手で頭を抱える。全身が裂けるように痛んだ。大勢に囲まれ、顔のかたちが変わるほど殴られたときも、母親の男に肋骨を折られたときも、これほどの痛みは感じなかった。
体重を支えきれず、おれは無様に床の上にへたり込み、個室の壁に背中を預けて呻いた。紙が破けるように、心臓がちぎれてばらばらになってしまいそうだった。
こんな痛みは知らなかった。宥人に会うまで。これほどまでにおれを痛めつけ、弱らせ、地獄の淵に追い込むことができるのも宥人だけだった。母親にも、その男たちにもできない。できるはずがない。
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