5.アンガーマネジメント

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5.アンガーマネジメント

 数分程度だったはずだ。トイレの個室にうずくまっているうちにどうにか冷静さを取りもどした。以前、宥人に指摘されたことがある。おれは頭に血が上りやすい性格で、かっとなると怒りに任せて無軌道な動作にはしりがちだ。腹が立ったときにはすぐに判断せず、熱が冷めるまでひとりでじっと待つという手法も宥人に教わった。アンガーマネジメントとかいうらしい。理論は知らないが、すくなくとも、宥人と付き合ってから、暴力沙汰に巻き込まれることはなくなった。  トイレを出てもとの場所にもどったが、宥人の姿は見当たらない。LINEのメッセージでどこにいるか尋ねたが既読はつかず、電話にも出ない。  ひとりでレストランにもどったのかと引き返してみたが、宥人はもちろんのこと、母たちの姿もすでになかった。  舌打ち。再び別れた場所にもどって、ふと思い当たった。おれはあえてもっとも近いトイレをスルーしたが、宥人はおれがそこへ入ったものと考えたかもしれない。むしろ、そう判断するほうが自然だろう。  ほとんどはしるようにトイレに向かった。険しい顔つきをしていたのだろう。すれちがった客たちが怪訝な顔を向けてきたが、気にならなかった。  トイレのなかに宥人がいた。ひとりではなかった。男といっしょだった。  宥人だとわかったのは、わずかに見えたデニムの色合いとトイレの床に置かれたバッグの柄のためだった。スカジャンを着た大柄な男が遮るように背を向けて立っていた。宥人は男の前で床に膝をついていた。ショッピングモールのトイレで見るにはあまりに不自然な体勢だった。おれの前で、宥人がときおり取る体勢。  個室でもない、だれもが通りすがる場所で、そんな行為に及ぶはずがない。暴力の匂いもなかった。わかっているはずなのに、目の前が白くなり、頭蓋が烈しく揺れた。  アンガーマネジメント。くだらない横文字。一瞬、頭のなかを通り過ぎ、あっという間に霧散した。  おれは無言で足を踏み出した。止めることなどできなかった。 「善くん?」  おれに気づいた宥人が男の影から顔を覗かせた。スカジャンの男が振り向くのと皰の浮いた顎におれの拳がめり込むのと、ほとんど同時だった。  不意を衝かれた男の大きな体が壁に衝突し、床に倒れる。声も出さずに昏倒した。脳震盪を起こしたのかもしれない。 「善くん!」  突然の事態に、宥人が声を張り上げた。体をぶつけるようにしておれを制止する。 「なにするんだよ、いきなり……」 「そっちだろ、それは!」  おれもそれ以上の声で叫んだ。だらしなく仰向けになった男を指さし、いった。 「こいつとなにやってたんだよ」 「は?」  わけがわからないといった表情が一拍措いて強張った。 「ちょっと待って。誤解だってば」  慌てていって掌を差し出す。手の上にはなにも載っていない。 「コンタクト落としただけだよ。そのひとがいっしょに探してくれて……」  倒れていた男がうめき声を上げた。意識の混濁は一瞬だったようで、床の上で身を捩って起き上がろうとしている。  物音に気づいた客たちがトイレの前に集まっていた。すこし離れた場所から好奇と畏怖が綯い交ぜになったような視線を向けてくる。スマホのレンズを向けている奴もいる。  舌打ちして床のバッグをつかんだ。宥人の腕をつかみ、引き摺るようにトイレを出た。 「ちょっと……痛いって!」  駐車場にたどり着いたところで、宥人が暴れていることに気づいた。無意識のうちにかなりの力が入っていたようで、半袖のシャツから伸びた腕に指が食い込んでいる。  手を離すと、反動でバランスを崩し転倒しかける。もう一度手を伸ばし、支えてやった。転ばずに済んだというのに、宥人は渾身の力でおれの手を撥ねのけた。 「なに考えてんだよ。こんな……」 「だからそれはそっちだろって」  抑えた声でいった。宥人は額に汗を浮かべ、息を弾ませておれを見ている。つかまれていた左腕に指の跡がくっきり残っている。かなり鮮明だ。しばらく消えないかもしれない。 「ちょっと目を離した隙になにやってんだよ!」 「コンタクトを探してたんだってさっきいったじゃん!」  暴力の残渣がおれを興奮させていた。宥人の声も自然と高まる。 「電話出るくらいできねえのかよ!」 「だからっていきなり殴ることないだろ!」  おれの手からバッグを奪い取り、背を向ける。いなくなる、と思った。咄嗟に肩をつかみ、自分のほうを向かせた。怯えた顔を至近距離で見つめる。 「触られてるように見えた」 「はあ?」  今度はさっきよりもあからさまに顔をしかめた。 「なに馬鹿なこといってんの」 「だれが馬鹿だ? おれか?」 「だってそんなことあるわけない」 「どうかな。宥人さん、ワルっぽい男好きだしな」  自虐をこめて吐き捨てた。宥人の顔の筋肉が強張って歪むのが見えた。 「……本気でいってる?」  静かにいう宥人の表情は怒りや怯えというよりもむしろ悲しんで傷ついているように見えた。怒りで我を忘れていたおれは虚を衝かれ、口を噤んだ。 「……もう嫌だ、こういうの」  ため息とともに、宥人が呟く。 「なんだよ、それ……」  絞り出すようにいった。 「なあ、それどういう意味だよ」 「だから……」  宥人が後ずさる。背後に駐車スペースを探して徐行するワゴン車のヘッドライトが見えた。宥人は気づいていない。無意識に手を伸ばすと、宥人の体がびくっと跳ねた。バッグを提げた腕を掲げ、顔を背ける。あきらかに怯えていた。 「……今のなに」 「え……」  おれの表情が変わったことに気づき、宥人が瞳を揺らせた。 「おれが宥人さんに手上げると思ってんのかよ」  沈黙。宥人が口をひらきかけるよりも一瞬早く、背後で大きな声がした。振り向くと、館内に通じる連絡口から数人の塊がこちらに向かってくるところだった。男が4,5人に女もいる。派手な柄のシャツやいかにも安物といった金色のアクセサリー。東京では嘲笑の的になるような昔ながらの不良といったスタイルだった。 「おう、こぎゃんとこおったんか、おまえ、こら」  中央にいたサングラスの男が唇を歪めて凄む。隣にはトイレでひっくり返っていた大柄な男の姿もあった。 「こいつか?」 「間違いなかです」  兄貴分らしき男の言葉に頷く。顔にはおれへの恨みがあからさまに貼りついている。手当てを受けるよりも仲間を呼ぶことを優先したらしく、顎は痛々しく腫れ上がっていた。 「なんだ、おまえら」  戸惑って怯えている宥人の前に立ちはだかるように一歩前へ進む。不良たちの一団もこちらに近づき、薄暗い駐車場で睨み合った。 「善くん……」 「だいじょうぶだから、車いて」  振り向かずにいった。女含めて7人。年齢はかなり若い。女ふたりは高校生に見えた。他も十代から二十代といったところだろう。粋がってはいるが、喧嘩慣れしているようには見えない。恐れる理由はなかった。 「うちん後輩に怪我させたんなあんたと?」  年嵩の男は値踏みするような目でおれを見た。 「よそんひとがおれらん地元で悪さされたら困るんですわ」 「見てよ、こん顔。どぎゃんすっと。あたんせいたい」  長い髪を金髪に染めた女が男の後ろから口を出す。 「黙っとれ!」  サングラスの男が声を荒らげると、女は不服そうな顔で口を噤んだ。 「だったらなんなんだよ。やんのか、こら」 「ああ?」  怯む様子を見せないおれを訝しく思ったのか、サングラスのすこし後ろにいた男が眉を寄せるのが見えた。キャップの鍔を持ち上げておれを凝視している。 「善くん!」  宥人がシャツの裾をつかんでくる。雑に振り払った。 「いいから車にいろって」  宥人の声を聞いたキャップの男が間の抜けた声を上げた。慌てた様子で目の前の女を圧し退け、サングラスの男に耳打ちする。なにをいわれたのか、サングラスの男が目を見開いた。サングラスを毟り取る。 「あの……」  か細い声でいう。さっきまでとは別人のような腰の低さだった。 「あの、すみません、もしかして、博多二工の宮下くんじゃなかですか」 「あ? だれ、おまえ」  男たちがざわつきはじめ、女たちが戸惑いの表情を浮かべる。 「やっぱり!」 「すげえ! こんなとこで会えると思っとらんかったです!」 「なんなんすか。だれなんすか、こいつ」  サングラスとキャップが騒いでいるのを怪訝な顔で見ながら、殴られた大柄な男が不満の声を漏らす。 「こん馬鹿! 宮下善さんいったら九州で知らん奴おらんくらい有名やったやろうが」  年長の男に窘められ、男は不承不承退いた。後輩の敵を討つ気がないことを知ったようだ。  宥人の視線に気づき、おれは気まずさに顔を逸らした。福岡の暴走族に出入りしていたのはもう10年以上前だ。熊本なら知っている者もすくないだろうとたかを括っていた。チンピラにどう思われようと、おれにとっては宥人に誇れるような歴史ではない。 「すんません、宮下さん。このアホが失礼して……」  サングラスの男が両手を膝にあて、慇懃に頭を下げる。 「お詫びに今から酒でもおごらせてください」 「はあ? 嫌に決まってんだろ。アホか」 「宮下さんに憧れとる若いの多いんで、お願いします」  キャップの男も倣って頭を下げる。 「嫌だっつってんだろ。連れがいるんだよ」 「あ、そちらご友人ですか」  宥人の存在にはじめて気づいたかのように、男たちが顔を上げる。 「友達じゃねえ。付き合ってんだよ」  おれが答えると、男たちは水を打ったように静かになった。互いに顔を見合わせ、どう反応すべきか考えあぐねている。  沈黙を破ったのは宥人だった。冷めた声でいった。 「善くん、ふざけすぎ」  その言葉が免罪符になったかのように、男たちが一斉に笑い出した。戸惑いと媚が混じった不快な笑いだった。 「ちょっとちょっと、勘弁してくださいよ」 「マジでびっくりしたじゃないですか、もう」  笑い声が大きくなる。苛立ちが頂点に達した。 「うるせえ!」  おれが怒鳴ると、笑い声がぴたりとやんだ。緊張感が漂い、だれも動かなかった。騒がしかった女たちも殺伐とした空気を感じてか、互いに身を寄せ合って息をひそめている。 「怒鳴るなよ」  宥人がため息をつく。男たちの視線がおれから宥人に移る。おれに対してなんの遠慮も見せない宥人の正体を探るような目だった。  おれも振り向いて宥人を見た。宥人は笑っていなかったが、怒ってもいなかった。無表情にバッグを抱えなおし、いった。 「行ってきなよ。せっかくだし」 「はあ? 行かねえよ。なんでおれがこんな奴らと……」 「いいじゃん、たまには同世代と遊ぶのも楽しいよ」 「楽しくねえし。今日は宥人さんと……」 「あのー、お友達の方もよければいっしょに……」  不良どもがよけいな気を遣って口を挟む。 「いいです。……旅館の住所わかるよね?」  後半はおれに向けた言葉だった。視線は逸らしたまま、車のキーを取り出す。 「じゃあ」  短くいって、車に乗り込み、エンジンをかける。 「ちょっと……宥人さん!」  レンタカーのテールランプが遠ざかるのをぼんやり眺めた。信じがたいことに、おれはショッピングモールの駐車場に置き去りにされたのだ。騒ぐ不良少年たちや買い物客が生み出す喧噪のなか、おれは呆然と立ち尽くしていた。
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