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序章 日常の終わりは突然に
[視点:繊利千秋]
『どうして、助けてくれなかったの……?』
……あぁ、まただ。
またあの日の雨の中で、幼かったあの子が泣いている。
たった一人の親友だった。
唯一、家族以外で自分の秘密を打ち明けた子だった。
そうしてまたあの日のあたしは答えるんだ。
『……ごめん』
雨が、うるさかった。
*
――ガバッ!
急速に意識が現実に引き戻されて起き上がる。カーテン越しに射しこむ朝の光が視界を貫いて、たまらず目を閉じた。
そしてゆっくりため息をつく。
……悪夢だ。
寝間着として着ているタンクトップとジャージが汗で肌に突っ張った感覚を与える。気持ち悪くて仕方がない。
あたしは寝起きでボサボサになった頭をガシガシと掻いてベッドから立ち上がる。
*
「……おはよ」
けだるさの残る声で母さんに声をかけると、いつもの明るい笑顔で「おはよう、千秋」と返してくれる。数秒遅れてすでにスーツを着込んでいる父さんも「おはよう」と声をかけた。
……悪夢を見ることは誰にだってある。
そして思い出してはこう考えるんだ。「あの時ああしていれば」「こんなことを言わなければ」そんな『たられば』の話。あたしだって例外じゃない。
そんな話の次はもし過去とは違う行動をとった時、どんな未来が待っていたかを考える。自分の都合の良いように頭が勝手にストーリーを築き上げるから、たいてい明るい理想郷の未来が待っているだろう。
でも結局事実は変わらない。そこで理想の夢ははじけて消えて、人間は現実に戻るんだ。
シャワーを浴びて朝食を軽く食べ、シャコシャコと歯を磨く。
……もしあたしがあの日、未来を変える力があったなら。その勇気があったならば。
もしかしたら今もあの子はあたしの傍にいて、あたしの親友でいてくれたかもしれない。
……なんて。
考えるだけ無駄、か。
鏡の中の自分に嘲笑を向けた。
終わったことは仕方がない。あたしは前を見るしかないんだ。
そうしてあたしは制服に着替え、カバンを手に家を出る。
自分の足につけられた『過去』という足枷から目をそらして。
***
[視点:筆者]
「千秋ー! ねぇ、千秋いなくない?」
授業前の高校の教室で女子が繊利千秋を探していた。しかしその姿は見当たらず、周りにいた女子はそれに対し特に驚くこともなかった。
「また具合悪くなったんじゃない? あの子一年の頃からよく体調崩してたよ」
「んー……でもさ、それ仮病じゃない? いつもそんなに具合悪そうには見えないんだよね」
「私、あの子ちょっと怖いかも」
「なんで?」
「誰にでも人当りいいじゃない? でも本心を隠してる気がするんだよね」
「わかるー」
「ちょっと、やめときなって! なんかあたしら悪口言ってるみたいじゃん」
「あはは、たしかに!」
そんな数人の女子生徒の会話を、長い黒髪をハーフアップにして眼鏡をかけている『もう一人の千秋』……藤島千秋は、唇をかみしめて聞いていた。
***
[視点:繊利千秋]
――キーンコーンカーンコーン
あ、またチャイムが鳴った。まぁ、別にいいか。
あたしは学校の中庭にあるベンチに仰向けになって寝転がっていた。
この中庭には背の高い木や植物がたくさん植えられていて、いくつかあるベンチの中で唯一このベンチだけがどの場所から見ても死角になることを知っている。
あたしはここで授業をサボるのが好きだ。
目線の先にはどこまでも広がる快晴の青空。あたしの夢見る、何にもとらわれない世界。
ときおり優しいそよ風がセミロングの茶髪を揺らし、それも気持ちいい。
あたしはそっと右手を空に伸ばす。何も掴めないのはわかっている。でもその届かないことになんとなく無限の可能性を感じた。
……人の生き方は、ひとつじゃない。
そう教えてくれているようで。
あたしは昔から学校という名の集団生活が苦手で、当たり前のように存在しているルールを鬱陶しく思っていた。
一方、それを破り続けたら面倒なことになるのもわかっていて、自分に偽りの仮面をつけていた。
でもこの青空はそんなあたしに希望を見せてくれる。
「早く大人になりてぇな……」
社会人になりたくはないけど、少なくとも今あたしを縛り付けている『学校』に行かなくてよくなる。
……高校二年の夏は、まだまだ終わりそうにないけれど。
はやく。はやく抜け出したい。
周りに合わせて女の子ぶるのをやめたい。
最近になって始まった進路調査も嘘を書いた。書けば書くほど、自分に嘘をついているようで苦しかった。
苦い気持ちになって目をつぶる。
きっとあたしは、自分に嘘をつくのが嫌なんだろう。
そう心の中で思ったその時。
「あ、あのっ!」
突然近くで聞こえた声にギョッとして飛び起きた。すぐに頭の中でオフをオンに変えて、偽りの自分を作る。
草むらの影から出てきたのは、春のクラス替えで同じクラスになった藤島千秋だった。
意外な人物にあたしは目を見開く。
あれ? つーか……
「藤島さん? ってか今って授業中……」
「サボりました!」
「……は?」
藤島はノートを胸の前で抱え、勇気を振り絞っているのか目をギュッとつぶっている。
あたしは頭がついていけなくて数秒フリーズしてからできる限り優しく訳を聞いた。
「えっと、いったいどうしたの?」
「これ、さっきの授業のノートです! テスト前だから無いと困るかと思って……」
そう言ってノートを思いっきり差し出してくる姿に、かつての親友の姿が重なる。
『これ、千秋ちゃんが休んでた間の授業のノート!』
――理沙だ。初めてあたしに声をかけてきた小学生の悠木理沙と似てる。
なんだか胸が熱くなった。
「え、まさかこれをあたしに渡すためにサボったの……?」
返ってくるのはうなずきひとつ。
おいおい、マジか。
この大真面目な藤島が、あたしにノートを貸すだけの理由で、サボり?
信じられなかった。
「あー、えっと、ありがとう。とりあえず座る?」
「えっ……う、うん」
そうして自分の隣に座らせたものの、あたしはこの子をどうしていいものか悩んだ。
なんだかいたたまれない雰囲気になってくる。
とりあえず何か話題を、と思い借りたノートを開いてみると、そこにはすごく綺麗な字でわかりやすく授業がまとめられていた。テストに出そうなポイントもきちんと押さえてある。
思わず「すご……」と声に出していた。
「すごく字、綺麗だね……。あたしは書けないや」
そう言いながら藤島の顔を笑顔で覗き込むと、藤島の表情が曇る。
あれ? 変なことでも言った?
そう不安に思っていると、藤島は覚悟を決めたように真剣な目をこちらに向ける。
「あの、繊利さん……私の前だけでも、本当の自分になってくれないかな」
「え?」
ズキン、と心の音が鳴った。
「私、ちょっとだけ知ってます! 本当の繊利さんの姿……」
本当のあたしを知ってる? なんで?
そんな心の声が藤島にも伝わっているようだった。
「前に裏通りを歩いているとき、偶然繊利さんを見かけて……。きっとあの姿が本当の繊利さんなんですよね? 少し男らしいというか、中性的で、言葉遣いもちょっと違ってて……」
「……」
しまった。完全に、バレてる。
さすがに動揺したが、その姿を見られてはもう隠すことはできない。
ん? ……いや、違う。
本当の自分でいて、いいのか。
あたしは盛大にため息をついた。横の藤島がビクッとなるのを感じたが、無視をする。
素直に言おう。嬉しかった。
誰にもさらけ出すことができなかったこの学校の中で、本当のあたしを知ってくれている人がいたことに。
本当のあたしでいていいと、許してくれたことに。
あたしは前を向き直し、軽く脚を組んで両腕はベンチの背もたれに預ける。座り方を変えたことで、藤島は本当のあたしの姿だと感じ取ってくれたみたいだった。
「バレたなら、仕方がねーな」
そう言ってニヤッと笑って見せると、藤島は目を輝かせて笑顔でうなずく。
なんだ、笑えば可愛いじゃん。
そんなことを思った。
あぁ、なんだか息がしやすい。
いつも偽りの自分という仮面をつけていた日常。
……そんな日常が、パリンと音を立てて崩れ始めた。
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