0人が本棚に入れています
本棚に追加
楽
え~、すっかり秋めいて参りまして。この時期になりますと、お月さんが毎晩のように綺麗に見えております。
澄み渡る、秋の夜空を昇る月……なんだか、ロマンチックな気分になっちまいますな。
フラ~イミツゥザム~ン♪
私を月に連れてって
星達に囲まれて遊んでみたいの
木星や火星に
どんな春が訪れるか見てみたい
言いかえると手を繋いでってこと
だからつまり…キスしてってこと
……バート・ハワード 1954年
知ってる。あぁ、そちらの方も……
良い歌ですもんね。
In other words、言いかえるとってところが乙なんですな。
シナトラや、ドリス・デイ等が歌い上げ、ジャズのスタンダードとしても愛され続ける一曲です。宇多田ヒカルちゃんも歌ってました。そう、アニメの新世紀エヴァンなんとかの、エンディングでも流れてましたなぁ。
ほぅ、好き?
なるほど、若い人にはそっちが馴染みか。
実はわたしもこの歌が大好きでして。
こんな落語の席で話すのは気が引けるんですけどね、ここだけのはなし、こいつを唄って今の女房を口説き落としたんですよ。
満月の夜にね。
えぇー、嘘じゃないですよ。
なに、信用できないと……
お客さん、昔から月に纏わる話てぇのは多いものでね、月にはなんと言うか、神秘的な魅力があるんですな。言うでしょ、女性に満月を見せちゃいけないだとか。
月と女性の体には、深い関わりがあると言われてましてね。実際、満月が女性に与える影響は大きくて、体調不良になったり、あっちの欲が高まったり……
ある大学の行った研究ではね、満月の夜は脳が興奮状態になりやすく、眠りにつきにくくなるという結果があるそうですよ。何らかの変化を感じる人は少なくないようです。
悪い男なんぞはそれに乗っかって、一夜限りの狼に変身したりなんかしてね。
ハッハ~わたしじゃありませんて。
皆さんは、そんなことしちゃいけませんよ。
あとね、言いかえるっていやあ、有名な話でこんなものがありますな。
あの文豪夏目漱石が、英語教師をしていた時の話ですよ。
生徒が「I love you」の一文を「我れ、君を愛す」と直訳したのに対し、「日本人はそんなことは言わない。月が綺麗ですねとでもしておきなさい」と、直した逸話。
粋ですなぁ~。
どんな時代でも、軽々しく口にできる言葉ではないですものね。
夏目漱石……
彼ならば、「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」に匹敵するほどの、洒落た歌が書けたでしょうね。
肝要なのは、相手がなんと返してくれるかだ。
わたしだったら、
「ずっと、月は綺麗でしたよ」なんて言われた日にゃあ、そのまんま、火星でも木星でも、飛んで行っちまいますがね。
「上手いっ!」って、どうもありがとうございます。
で、この逸話を聞いた、翻訳でも有名な二葉亭四迷先生がね、……漱石の感性に嫉妬でもしたんでしょうなぁ。
『浮雲』の影からうらめしそうに、
「死んでもいいわ」……と、
言ったとか、……言わなかったとか。
まぁ、人を好きになるってぇと、居ても立ってもいられない。いわんや相思相愛となれば、いつでも一緒にいたいってのが人情であります。
エドワード・ホールというアメリカの学者が提唱したパーソナルスペース。他人が自分に近づいても、不快に感じない限界の範囲を指すそうですが。それが、半径45センチ以内に相手が侵入しても不快に感じない場合、その関係は恋人レベルだとか。
コロナ禍の昨今、ソーシャルディスタンスだなんて言葉に阻まれて、おいそれと異性に近づくことも憚られる。不幸なことですな。
こんなご時世でも、惹かれ合う本能は大切にしたい。若い人たちには、警戒し過ぎてチャンスを逃すなよ、ソナーはしっかり張り巡らせておけよと、言ってやりたいものです。
自由に恋愛を楽しむ現代にも、純情と言うか、生まじめと言うか、なんと言うか……
色恋というものに不器用な人ってのは、けっこう居るもんですからね。
この大都会、東京の空の下にも。
ある満月の晩……
よう、月見はどうだったい?
あぁ、いいお月さんだったよ。
こっちに越してから色々と聞いていたが、うわさ通り。あんな十五夜を見たのは始めてだ。
そりゃそうよ。この辺りの月って言やぁ有名さ、昔っから色々と詠まれてるだろ。
めぐりあはむ、空ゆく月の行末も、まだ遥かなる武蔵野の原……藤原定家ってな。
あぁ知ってるよ。広大な武蔵野の原野にぽっかり浮かぶお月様。風情があるよね。
こんなのもあるよ。
行くすゑは、空もひとつの武蔵野に、草の原より出づる月かげ……
よしつね……そりゃ、九条良経だな。
おっご名答、やりますね。では同じ月かげでもこれはどうだろ。
ながむべし、霜に枯れゆく武蔵野の、露の名残に宿る月かげ……
んっ ……誰だっけ?
ふふっ、慈円だよ。
こりゃまいった。そんな和歌まで知ってるとは……ハハッ、流石に大学出の作家さんは違うってか。武蔵野の月を満喫出来たようだな。
いや、作家風情だよ。世に出せるものなんて、ひとつもありゃしない……
ん、一次通過したって意気込んでたじゃねえか。え~と、なんとか文学賞……
あれか、……駄目だったよ。
……あぁ、そうか……まぁ、なんだ……
で、どうだった、一緒だったんだろ。あの娘にキスしてやったかい?
えっ、いや、そこまでは……
手を握るのが……精いっぱい。
なんでい、こんな絶好の夜にそれだけか……
まぁでも、お前さんにしたら上出来だ、頑張ったじゃねえか。
それで、OKは貰えたのかい?
告白したんだろ。
まぁ、したことはしたが……
おぅ、やったじゃねえか。返事は?
別れ際に「会えてたのしかったわ」と。
脈なしだな……
会えてたのしかった……か。そうか……
で、こいつのどこがいけねえんだ。
いや 、いけないというわけではないが。
じゃあお前さんはあの娘に、なんて言われたかったんだい?
もう少し、なんというか、特別なことばを。
とくべつぅ?……例えばなんだい。
たとえば……
「月が綺麗」とまではいかなくても……うれしかった 。そう、「会えてうれしかった」と。
月がきれいだぁ?
フッ、龍之介かぶれが。
んっ……今、なんて言った?
龍之介、芥川りゅうのすけかぶ……あっ!
それを言うなら「漱石かぶれ」……だろ。
お月さんに笑われちまうよ。
うっ……うっせいわ、月が笑うわきゃねえだろうが。月が笑うだとぉ、こんちくしょうめっ!
やれ……たのしいも、うれしいも、一緒じゃねえか。
違うよ。女性から言われるんならそっちの方が格段に上だよ。女が喜ぶと書くんだぜ。
また小理屈を、頭でっかちが。んな事だから……
まぁ、いいや。とにかくお前さんは幸せもんだ。
えっ、……なんで?
あんないい娘が、好いてくれてるんじゃねえか。
……果たして、好かれているんだろうか。
もちのろんさ、お前さんの目は節穴かい?
馴染みの俺が言うんだ。
嘘だと思うなら、浅草寺の住職にでも聞いてみやがれ。お前さんと一緒に居る時のあの娘の笑顔……微笑ましいとよ。
それに笑うといっそう美人だ、俺もあやかりてえもんだよ。
浅草寺には二人でよく行くが、そうだろうか……
そうさ。早くに両親に逝かれてさ、目の見えねえ祖母さんの面倒をみながら、あんだけ苦労して生きてきた娘だ。
一時はあとを追うんじゃねえかって、みんなでひやひやしたもんだ。そんだけあの娘はせっぱ詰まってたんだ。
笑うことなんて、めったに……
生い立ちは聞いている。が、そんな想いをしていたとは知らなかった。
んっ?
するってぇとなにかい、辛え話はお前さんにはしてないんだな。
あぁ……
見上げたもんだ。
そういやぁ、こんなこともあったっけな……
七年前か、あの娘が高校二年生の頃だった。
両親を亡くして一年もしねえ内に蓄えが尽きてな、父親の借金もある。国保の遺族年金と祖母さんの年金じゃ暮らしていけねえからと、彼女はアルバイトを始めたんだ。
ほれ、駅前の海鮮お好み焼き。
あそこの店主は俺のダチでさ、よく食いに行くんだよ。そこで頑張ってたっけ……
バイトしてたのは聞いてるよ。
あの店は昔っから給与は手渡しなんだがな。
ある給料日、あの娘は帰り道で落としちまったらしくてよ。そこらじゅう探しても見つかんねえ。交番に行ってもダメだった。
諦めた彼女はしょんぼり家に帰ったさ。だがな、このことで祖母さんに心配は掛けられねえ。で、祖母さんの食事はいつも通り作ったが、自分は飯にごま塩だけで凌いだそうだ。一ヶ月もな……
そんなことが……
あぁ、それだけじゃねえ。俺達が知らねえ苦労話なんてのは、掃いて捨てるほどあったろうよ。
そうなんだ……
このあいだ住職が話してたよ。
あの娘は本堂の前でなにやら祈願していたそうだ。気になったもんで聞いてみるとな、はにかみながら教えてくれたと。
……お前さんの一次通過の礼と、本選での入賞を願っていたそうな。
えっ……
「会えてたのしかったわ」……か、ふふっ、あの娘がねぇ。けっこうな話じゃねえか。
確かに「楽しかった」と、そう言ったんだな。
あぁ……言った。
ふふ~ん。な る ほ ど ね……
なるほどねって、もったいぶって。
……なんなんだよ?
考えてみな。
ん……ん~
……で、わかったかい?
いや……
……じれってえ男だなぁ。
ようは楽なんだよ。
……らく……
たのしいってのはな、生きてて楽ってことなのさ。
お前さんはあの娘に、楽をさせてやってんだよ。
あっ……
ちっ、ようやくかい。
このぉ、すっとこどっこいがっ!
…………
それとな、ついでだから教えてやらぁ。
「嬉しい」ってのは、一時的に湧き上がる感情にすぎねえ。だがな「楽しい」は、連続する心のさまを意味してるのよ。 つまりは現在進行形。そうさ……
お前さんといるあいだ、ず~っと継続してんだよ。
うっ、こんな俺を……
なんだおめぇ、空見て。
ううっ……うっ……
彼女の笑顔を、思い出しちまった……
泣いてんのか?
……ううっ……
……まぬけだねぇ。
ほれみろ、
お月さんも、笑ってやがら。
……お後が宜しいようで<(_ _)>
最初のコメントを投稿しよう!