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妻カチェリが立ち去った部屋に、細身で黒髪の男が音もなく現れた。神経質そうな印象を受ける男の表情が、苦々しく歪んでいる。
「……君に殺されるなら本望……とか、くっせぇセリフ吐きやがって」
しかしハンスは、全く気にした素振りない。黒髪の男――常にハンスの影として幼い頃から仕えている存在――に一瞥もせず答える。
「夫婦の会話を盗み聞きとは、趣味が良いとはいえないな。それに部屋の立ち入りは禁止していたはずなんだけど、ローラン?」
「知るかよ。あの女はお前に毒を盛ったんだぞ?」
「心配しなくても良かったのに。カチェリに人は殺せないよ。彼女はいい人だから」
「ふんっ、お前と比べれば、大概の人間はいい人だ」
「うーん……ここは褒めてくれてありがとうって言うべきところかな?」
「ちげーよ。それにしても――」
ローランの視線が鋭くなった。
「何で追加であの女と同じ毒を飲んで、わざわざ死にかけた? あの女が仕込んだ毒の量じゃ、お前には効かないはずだろ?」
ハンスの瞬きが一瞬だけ止まった。
そしてここで初めてローランを一瞥すると、世間話をしているかのような気安さで話始める。
「カチェリが僕に、軽い体調不良を起こす程度の量しか薬を盛っていないことは知ってたよ。だけど、もし殺すつもりのない相手が自分のミスで死にそうになったら? いい人である彼女はどう思うだろう?」
「そりゃあ、罪のない人間をやっちまったって焦るだろうなあ」
「そう。彼女の頭の中は、僕への罪悪感で一杯になる。この三日間、他のことが考えられなくなるぐらい、僕のことを考えてくれていたはずだよ。それだけでも死にかけた価値はある」
「……きめぇ。てめえに目を付けられたあのお姫様が気の毒だ」
「そう? これほど愛の深い夫はいないと思うけど」
「普通は好きな女を手に入れるために、戦争を起こそうなんてやついねーよ」
微笑みという仮面を貼りつかせながら語るハンスに向かって、ローランは汚物をみるように顔を顰めながら吐き捨てた。
ルシ王国とグランニア王国が戦争をするきっかけを作ったのは、聖人君子と名高いハンスの仕業だった。
表立っては戦争を阻止する立場をとりながら、裏では周囲を唆し、でっち上げ、両国が戦争に向かうように仕向けていたのだ。
自分を信望する者たちに言葉の毒を仕込み、あたかも自分たちの意思で戦争を始めたように見せかけながら。
ハンスは頬杖を付くと、窓から差し込むオレンジ色の光を見つめながら呟く。
「……だって僕のこと、覚えていなかったから」
灰色だったハンスの世界を、笑顔と言葉で色づけてくれた王女カチェリ。
ハンスの心を救った恩人として感謝する一方、彼女への想いは強い執着として彼の中で燻り続けた。
成人を迎えたカチェリと再会が叶ったときには、自分が常に被っている微笑みの仮面が剥がれ落ちそうになるほど舞い上がっていた。
そして、信じて疑わなかった。
彼女も同じ気持ちなのだろうと。
しかし、
「お初にお目にかかります、ハンス様」
そう言ってカーテシーをするカチェリは、ハンスと出会ったことを全く覚えていなかった。
自分はカチェリとの思い出だけを糧に、生きてきたというのに。
ずっとずっと……ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっ――
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