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「やはり覚えていない、か……」
「申し訳ございません」
「昔のことだから仕方ない。会ったと言っても短い時間だったから」
夫は私から視線を逸らすと瞳を伏せた。
口元が僅かに緩んでいる。その表情はいつもの穏やかな笑みでありながら、愛おしさに満ち溢れたものだった。
こんな彼の微笑みを見たのは初めてだった。
「幼い僕はね、皆が言うような純粋無垢な存在じゃなかった。毎日がつまらなくてね、世界全てが色褪せているように見えていたんだ。皆が僕を『ハンス』ではなく、次期国王としてしか見ていなかったし、皆が望む王子を演じるのも疲れていたんだ」
七歳の子の思想にしては、あまりにも成熟しているように思えた。これも彼が優秀すぎる故だったのかもしれない。
「だけど幼い君と出会い、その口から笑顔から語られる輝かしい未来に、僕は初めて心が躍ったんだ。どんな教師が語る言葉よりも、強く、希望に満ちていて……つまらない世界がみるみる色づいていくのを感じたんだ。それからだよ、僕が変わったのは。君と出会わなければ今の僕はいなかった。そして――」
私の手に夫の手が重なる。
「僕の初恋でもあったんだと思う」
「……それが、今まで私が何をしても咎めなかった理由でしょうか?」
「そう、かもね。あの日、君が語った輝かしい未来を、僕は守れなかった。あの日、君が僕に向けてくれた満面の笑みを、この国は奪った。だからせめて君の憎しみだけは、僕が全て受け止めたいんだ」
夫の表情から微笑みが消えていた。
私に向けられた真っ直ぐな瞳が、言葉なく語っている。
今語られた言葉全てが、彼の本心なのだと。
それを悟った瞬間、私の唇が勝手に動いた。
「……やはり私を糾弾してください。私に毒を盛られたのだと……」
「それはしない。誰も悪くないんだから」
「明らかに悪いのは私じゃないですか‼」
「元はといえば、この国が戦争を引き起こしたのが悪い。それを止められなかった僕も同罪だ」
適当な理由を付けて調査を終わらせるよ、と夫が笑う。
「……愚かですね。私なんかを生かしていたら、いつかまた同じことが起こるかもしれませんよ」
「君に殺されるなら本望だよ」
その言葉とともに、夫が私を抱きしめた。
身体を包み込む温もりが心に染みこんでいく。私が守り続けなければならなかった憎しみの炎が、チリチリと侵食されていく。
憎むべき相手に抱きしめられているのに、不快でない自分がいる。
その事実が喉の奥を詰まらせる。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめん、な、さい……」
唇が、懺悔の言葉を無意識のうちに繰り返していた。目頭が再び熱くなり、瞳に溜まった涙が瞬きと同時に零れ落ちる。
閉じた瞼の裏に、無言で私を責める兄の虚ろな瞳が映った。
今私が口にする懺悔は、一体誰に向けたものなのか。
命を奪おうとしてもなお、私を守ろうとする夫に向けてなのか。
憎しみを手放そうとしている私を責める兄に向けてなのか。
もう分からなかった。
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