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龍彦との出会い
「あら、この布だれが煮出したの?素敵」
私の名前は凪 橙子、33歳。加賀友禅の染色作家として活動する傍ら、金沢美術工芸大学で染物科の助教授として勤務している。
色白で面長、眉はスッと筆で細長く引き、切れ長の目尻、黒い瞳、どちらかといえば中性的で化粧気は無い。黒髪のボブヘアーで何をどれだけ食べても肥れない体質らしく、全体的に細身、身長は169㎝。
20代で子宮癌を患った。生理痛も重く日常生活に支障が有った為、夫である凪 厳夫と相談し子宮全摘出に踏み切った。然し乍らその夫は3年前に交通事故死、現在独身。
その男子学生は樹木が陰を作るその下で、芝生に胡座を組んで果物の皮を剥いていた。枝と枝に結んだビニール紐、洗濯バサミに留められ風にはためく数枚の布切れを眺めながら溜め息を吐いている。大方、課題提出作品の染色に失敗したのだろう。
「あなたが染めたの?渋くて素敵ね」
ふと見上げたその美しい顔立ちに目を奪われた。噂に聞いていた佐々木ゼミの田村 龍彦だと直感した。
面長、眉も目の辺りも優しげな雰囲気で淡い栗色、少し尖った上唇に流れるような顎のライン。天然の癖毛なのか、柔らかな髪全体に緩いカールが掛かり、襟足をゴムで結えている。
白いTシャツに薄汚れたジーンズ、焦茶のエプロン、裸足、その横には黒いクロックスが転がっていた。
「それ」
「これが何か?」
「これ、橙よね?」
「・・・そうだと思います」
「私の名前と同じだわ」
「そうなんですか?だいだい?」
「な、訳ないでしょう?橙の子と書いて、橙子」
「・・・はぁ」
手元の濃いオレンジ色、小ぶりな丸い果物をチマチマとナイフで剥いている。
「いつも橙を使っているの?」
「本当は夏蜜柑が欲しかったんですが・・・売り切れてて」
「あら、うちの庭に夏蜜柑、腐るほどなってるわよ。今度取りにいらっしゃい」
凪橙子は平屋の日本家屋に1人で住んでいた。ドウダンツツジの垣根、小砂利に埋め込まれた大小の飛び石、木枠に昭和レトロで歪な透明ガラスを嵌め込んだ木製の引き戸の玄関。
この家は20歳年の離れた夫が好んで購入した中古物件、水廻りなど時々不具合があるがそれも愛嬌だと笑い合った。
夫の凪 厳夫とは橙子の出身地でもある岡山県の美術大学で教授と教え子として知り合い、26歳の時に結婚した。彼は妻の染色画をこよなく愛し、「君の作風は加賀友禅に似合うよ。」とこの石川県金沢市に移り住んだ。
それにも関わらず、凪橙子が30歳を迎える少し前、夫は交通事故でこの世を去り、彼女には夏蜜柑が生い茂る庭だけが残った。凪橙子は泣きながら玄関先の赤いポストから厳夫の名前を消した。実家の母からは地元の岡山に戻る様に勧められたが、姓を変えることは夫とのこれまでの人生を無かった事にする、そんな気がして凪橙子を名乗り続けた。
「あなたの名前は?」
「佐々木ゼミの田村龍彦です」
「ああ、そうなの。綺麗な顔の男子生徒の噂は聞いていたわ、確かにね。デスマスクでも取りたい顔立ちだわ」
やはり彼だった。芝生にひざまづいて彼の面差しをまじまじと眺めた。伏せたまつ毛も長く、まるで絵画から出て来た様な美しさだ。
「金曜の夜はゼミの子たちが集まって大騒ぎしてるわ。あなたもうちに遊びにいらっしゃい。夏蜜柑もあげるわ」
夫が他界して3年も経つと人恋しくなり、寂れた家に1人過ごす空虚な重さに耐えられなかった。
それが講義のない週末ともなると居た堪れず金曜日の夜は”放課後ゼミ”と称して学生たちに集う場所として自宅を開放していた。そこでは男女の垣根無く若者たちが夢や将来を語り、酒を酌み交わして賑やかに過ごした。それを縁側の籐の椅子に腰掛けて眺めている時は、凪橙子の寂しさは幾分か和らいだ。
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