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それ以来、凪橙子の目は美しい青年の背中を追うようになった。廊下ですれ違う横顔、高い背の樹木の枝にロープを張る時にはTシャツの裾が捲れてしなやかな姿態がチラリと見え、胸が弾んだ。
金曜の晩に解放している”放課後ゼミ”に彼がいつ現れるだろうかと、木製の引き戸がカラカラと音を立てる度に目線がそこに釘付けになる自分を年甲斐も無くと失笑したものだ。
あれから半月、彼は現れなかった。
5月の末、ドウダンツツジの白い蕾がふさふさと溢れる頃、日本酒の一升瓶を片手に田村龍彦は凪橙子の家の敷居を跨いだ。
「こんばんはー、田村ですー」
玄関を入ってすぐの土間、三和土、杉の段を2段上がると畳敷の茶の間がある。そのちゃぶ台に学生たちは酒や肴を持ち寄っては22:00頃までワイワイと賑やかしく過ごす。幸い凪橙子の家は通りから少し入った小径の突き当たりにあり、周囲は空き家だらけで何の気兼ねも要らなかった。あの夕暮れ時もそれは賑やかで彼の少し低い声はこちらまで届かなかった。
「こんばんはー!田村ですー!」
その声を聞き付けたのは”凪ゼミナール”の大家だった。
「お、誰か来たぞ」
「1、2、3、4、5、6人、みんないるぞ、誰か呼んだか?」
皆、興味津々で建て付けの悪い引き戸からひょいひょいと顔を覗かせて土間を見遣ると、黒いTシャツにジーンズ、黒いクロックスを履いた彼が夕焼けの逆光に立っていた。ふわふわとした髪が金糸の様に光に透けて見える。
「や、やだ!あの人じゃない!?」
「そうそう、あれあれ!」
彼の突然の登場に、女子学生は手を取り合って奇声を上げた。成程、然もありなん。そして無精髭を生やして長髪に頭巾を被った様な男子学生たちは、彼の手に握られた一升瓶に歓声を上げた。
「おぉ、天狗舞じゃないか!」
「これはこれは大歓迎!」
「入れ、入れ!」
籐の椅子に身体を預けその様子を眺めていた凪橙子も、実のところウィスキーをロックで4杯も呑んですっかり出来上がっていた。そんな酔いも手伝い、その場所から彼に駆け寄りその頬に吸い付いて歓迎したい所をぐっと抑え冷静を装った。
「あら、本当に来たのね。入って、入って」
そう言うと彼は(先生が来いって言ったから来たのに。)という具合で少し不貞腐れた顔をした。この顔も可愛らしくて好きだ。
「はーい、みんな!”佐々木ゼミナール”のエドガー・アラン・ポーこと、田村龍彦くんの登場よ!」
「凪先生、それはやめて下さい」
「良いじゃない、あなた本当に綺麗なんだから」
そこでつい調子に乗った凪橙子は皆に紹介する振りをして、彼の肩に手を回して万歳をした。顔に似合わず骨太で、胸板が厚く触り心地が良かった。ふわりと良い匂いがした。
「おお、来い、来い、大歓迎〜!呑むぞ〜!」
「呑むぞ〜!カンパ〜い!」
「か、乾杯」
「のめ、飲めぇ」
彼は生徒たちの輪にグイグイと手を引かれ、初めは正座をしてお猪口を口にしていたが1時間も経たないうちに出来上がって胡座を組み、イカゲソをそのツンと上向き加減の綺麗な形の唇に咥え、ゲラゲラと笑い出していた。
(意外と粗雑なところも有るのね、面白い子)
それから金曜日の夜になると、田村龍彦は度々、凪橙子の自宅を訪ねては”凪ゼミナール”の生徒たちと酒を呑み、将来の夢や就職活動について語り合う様になった。
ただ彼は卒業後の進路に悩んでいるようで、自宅の工務店を継ぐかこのまま大学院まで留まろうかと先輩たちに相談している姿を度々見掛けた。本来ならば染色の世界に進みたいのだが、自宅の工務店の後継が自分しか居らず母親が理解を示してくれないのだと言う。
「何だよ、お前マザコンなのか?」
「違います」
「なら、おふくろさんの意見なんてどうでも良いじゃないか、このまま続ければ良いだろ」
「そうなんですけど」
どうやら彼は母親の意見に異を唱える事が出来ない性質のようだ。
「何」
「大学の学費も母が出してくれているので」
「ん、かぁぁぁ。今時、裕福だな」
「そうなんですか?」
「だいたい皆んな奨学金で通ってるよ」
「はぁ」
そんなのらりくらりとした物言いに皆、呆れる事もあった。美術工芸大学を卒業し、そのままスムーズに芸術の世界に進める人には限りがある。それでも意思の強い学生は創作活動の傍らバイトを幾つか掛け持ちし、独り立ちするまでそのスタイルを崩す事無く冷飯を食べながら励むのだ。
残念な事に、田村龍彦からはその覇気が感じられなかった。そんな周囲の学生との創作意欲に対する温度差も有ってか、彼は”放課後ゼミナール”の中で浮く存在になっていった。顔を出す頻度も少なくなり、たまに来ても部屋の隅でチビチビと温くなったビールに口を付けている程度だ。
それを見兼ねた凪橙子は”助教授”として、彼の隣に座るようになった。
「ねぇ、田村くん」
「はい」
「君は何でここに来ているの?」
「何となく」
「何となく?」
本当に何事にもやる気が無い。幾ら見栄えが良くても金メッキが剥がれれば只の河原の石ころ、いや、ここまで無気力だと石に失礼かも知れない。
「普段は何をしているの?」
「ゲームを」
「ゲームぅ?」
「はい」
「オンライン対戦とか?マリオカートとか?」
「マリオカートはしません」
「あ、そ」
呆れてものも言えなかった。これでは”放課後ゼミナール”の仲間たちと疎遠になった事も頷ける。
それでも、あの木陰で課題の布を何度も染め直していた姿には未だ見込みがあると思い、次回来るまでに1枚作品を作ってくる様にと宿題を出した。それが仕上がるまではここには来るな、とも告げた。
「はい、分かりました」
「頑張って」
凪橙子がポンポンと肩を叩くと彼は咄嗟に反応して身体を避け、頬を赤らめた。
「あら、嫌だった?」
「いえ」
それから彼はこの1ヶ月、”放課後ゼミナール”に顔を出す事も、家を訪ねて来ることも無かった。どうやら宿題に励んでいるらしい、凪橙子はそう思っていた。
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