482人が本棚に入れています
本棚に追加
白檀の香り
ほんの少しの急勾配、両脇から葉桜が枝を伸ばす坂道を自転車を押して登ったその先に、煉瓦造りの金沢美術工芸大学が建っている。
1階の駐車場の片隅やその奥の空き地には彫刻デザイン科の生徒が掘り出した石膏作品がゴロゴロと転がり、正面玄関にはレプリカの”サモトラケのニケ”が大理石の台座の上で大きく羽根を羽ばたかせていた。
凪橙子が助教授として勤める染色デザイン科の教室は、味気の無いコンクリート造りの2階にある。キュッキュッと滑りの悪いビニール貼りの床、鈍色の扉のネームプレートには”染色デザイン室”と黒いゴシック体の文字が並ぶ。
隣室は油絵絵画室、真夏になるとテレピン油の独特の臭いが立ち込め気分が悪くなった。
そして1階と2階の間、踊り場の小窓からは青々とした芝生に、大人が2人手を伸ばして丁度良い程の太い幹のナラの樹がポツンポツンと天に向かって生い茂っている。
あまり他人との関わりが上手では無い田村龍彦は、そのナラの樹の下が気に入っている様でいつも1人で染色に使えそうな果物の皮を剥いていた。宿題を出してから1ヶ月、何の音沙汰もなく業を煮やした凪橙子は黙々と作業に取り掛かる彼の前に、腰に手を当て仁王立ちした。彼を見下ろした凪橙子の顔が逆光で見えなかったのか、凪橙子を見上げた彼の視力が弱いのか、田村龍彦は凪橙子の事を、一瞬、誰だろうという顔をして見上げた。
「田村くん、あなたいつになったら家に来るの?」
「あぁ、凪先生」
「先生じゃ無いわよ、宿題はどうしたの!」
すると胡座をかいて座っていた彼は急に立ち上がり、それまで皮を剥かれていた夏蜜柑たちが足元にゴロゴロと転がった。田村龍彦は凪橙子の周りをぐるぐると回るとふんふんと鼻を鳴らし始めたのだ。
「何よ。テレピン油の臭いでもする?」
凪橙子も思わずしかめっ面で右腕を上げ、白衣の肘の臭いを嗅いだ。
「特に変わった事はないわよ、失礼な子ね!」
「いえ、先生からはいつも何か良い匂いがします」
「匂い?香水は付けて無いわよ?」
「花の匂いです」
「花?」
もう一度、今度は白衣を捲って裾を嗅いでみる。凪橙子の白衣の下は黒い膝丈のタイトスカートで、腰から太もも、足首までのラインがとても美しい、が、残念な事に履いているグレーのスニーカーは赤や群青、緑の染料が染み付いて汚らしかった。
ふんふんと彼方此方嗅いで見たが、特に変わったところは無い。すると彼は立ち上がって凪橙子の肩までの髪を手に取ってふんふんと鼻を鳴らした。
「これじゃ、ない」
どうやら凪橙子が普段から使っている整髪料の類でもなさそうだ。その流れで彼は凪橙子の首の辺りに鼻を近付けた。息遣いを感じる。腰骨がゾクゾクした。屈んでいた彼が背を伸ばした時、陽の光が眩しかった。
(あら、気が付かなかったわ)
背が高い、180㎝、いやもう少し高い、それよりも2人の距離が近い。至近距離の彼のまつ毛は茶色く長く陽の光に透けた。
「田村くん、あなた犬みたいね」
「やっぱりします」
「そう?私には分からないわ」
「良い匂いです」
「あ、そ」
「はい」
そして仁王立ちした凪橙子は左手を腰に、右手の手のひらを返して田村龍彦の目の前に差し出した。
「お褒め頂いてどうもありがとう、で、宿題は?」
「宿題は、ありません」
「はぁ?」
すると彼は屈んで足元にぞんざいに置いてあった薄汚れた麻のトートバッグから1枚の布を取り出すと芝生の上にふわりと広げてみせた。それは畳一畳分有ろうか、薄青と灰色の濃淡。淡い黄土色で縁取られた白い花が片隅で息を潜め、その周囲には灰緑に萌黄の葉脈が見て取れる。
「この、白い・・・花?花よね?」
「ドウダンツツジです」
「あぁ、私の家の玄関に有るわね、よく覚えていた事」
すると彼は鼻先を撫でながら首の後ろを摩った。
「・・・夕方の、凪の海をモチーフにしました」
「へぇ」
「凪先生のイメージです」
「私って、こんなに暗いイメージかしら?」
「少し寂しそうです」
「はい?はいぃぃ?」
凪橙子は戯けて見せたがかれこれ3年、1人暮らしの寂しさを、この若い青年に見透かされた様で痛い所を突かれたと溜息が漏れた。
(そんなに物欲しげ顔をしているのかしら、私)
「先生、はい」
「何」
芝生に広げた”凪の海”を、右手で粗雑に掴んだ彼は凪橙子の前に突き出した。
「あぁ、そんな握ったらシワになるわよ」
「・・・・・・・」
縮緬の行方を嘆きつつ、それを受け取って伸ばすが余程強く握ったのだろう。雑巾を絞った様な跡が付いている。
「で?」
「これは宿題ではありません」
「じゃぁ、何?」
「・・・・・」
何か下を向いてボソボソ言っている。まどろこしい。見上げて彼の顔を覗き込むとその白い鼻先が赤くなっていた。
「田村くん、あなた、こんな所で作業するから日焼けしたんじゃない?」
「違います」
「何よ、その目は」
少し不機嫌そうな目をした彼は足元の小刀を拾うと鞘にしまい、散らばった丸い夏蜜柑やその皮をトートバッグに無造作に詰め込むと脇に転がっていた黒いクロックスを突っかけてその場に立つと、直角45度でお辞儀をした。
「な、何の挨拶?」
その後、真っ赤な顔をした田村龍彦は目を彼方此方に泳がせて喉を震わせた。
「宿題じゃありません」
「じゃぁ、何」
「ぷ」
「ぷ?」
「・・・・・」
「ぷって、何!」
「プレゼントです!」
そう叫ぶと彼は横を向き、急に駆け出した。
「先生が好きです!」
そして呆然とした顔の凪橙子を残し、彼の後ろ姿はコンクリートの四角い箱の中に消えていった。
「あ〜、それはそれは、どうもありがとう」
両手を広げ、凪橙子は彼からの初めてのプレゼントを青空に広げて眺める。縮緬の”凪の海”は幾らか明るく見えた。
「なかなか良いじゃない、合格」
凪橙子、33歳の夏。ドウダンツツジの花言葉は ”私の思いを受けて” なんと凪橙子はこの歳になって26歳の青年から愛の告白をされたのだ。
(ねぇ、厳夫さん。そろそろ私、恋のひとつもしても良いかしら)
後日判明したこの”花の匂い”は毎朝、お仏壇にあげる線香の白檀の香りだった。ちなみに白檀の香りには催淫効果があるらしく、それが彼の気を迷わせたのかもしれない。
最初のコメントを投稿しよう!