列車

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列車

8月 アブラゼミが賑やかなキャンパス。 夏季休暇の最中、凪橙子は金沢美術工芸大学に退職願を提出した。 「凪くん、これは。」 「来月をもって退職を、お願いします。」 「しかし、また突然。どうして。」 「一身上の都合で、岡山の母が体調を崩しまして。」 「そうですか。」 母親の事など程の良い言い訳に過ぎない。 凪橙子は自分の弱さを重々承知し、次に龍彦が訪ねて来た時それを撥ね付ける強さを持ち合わせては居なかった。心の寂しさ身体の貪欲さに負け、龍彦とまた、だらしの無い身体の関係に陥る事だけは避けたかった。 自尊心が許さなかった。 (・・・・・終わった。) 凪橙子は茶の間に力無く座ると部屋を見渡した。 持ち出す物といえば亡くなった夫の位牌、印鑑、通帳、保険の証書、染色創作に使う筆や顔料、色彩絵具、衣類、身の回りの物が僅か。 (これも、これももう必要ないわね。) 引越し業者に頼むより、燃えないゴミとして電柱3本分離れたゴミステーションに出す物、家電業者に引き取ってもらう物、金沢市のゴミ処理場に持ち込む物が大半を占めた。凪橙子に必要な物はもう何も残っていなかった。 「もしもし、お母さん、心配掛けてごめんね。明日、金沢を発つわ。」 凪橙子は大学講師やゼミナールに所属していた生徒、ロータリークラブの会員、その誰にも行き先を告げず、20年暮らした石川県金沢市を離れた。 特急列車青いサンダーバードの車窓には石川県独特の黒光りする瓦屋根が何処までも続き、犀川を越え、加賀平野を見渡し、それはやがて日本海へと注いだ。 深緑の峠を越える長い、長い、長く暗いトンネル。 避難経路の白い明かりが前方から後ろへと流れる。 黒い窓ガラスに映る凪橙子の顔はやつれては居たがその目に迷いは無かった。トンネルを抜ける、視界が白く開け、光に包まれた。 (もう、福井、滋賀県なのね。) やがて窓の左手には琵琶湖が横たわり海風に歪な姿の松が点、点とし始め白壁の避暑地が広がった。そしてカンカンと鳴る遮断機と幾つかの小さな駅を見送る頃には住宅街はおもちゃ箱をひっくり返した鮮やかな色彩の屋根に変わり、奈良県を過ぎると雑木林の様に高層マンションが群れになって生え始めた。 (この景色も見納め。) 凪橙子がこの青い列車に乗ることはもう2度と無い。 あの見渡す限りの広く平い風景は何処にも無い。 もう無い。
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